ナ ツ ア オ イ

恋と秘密 10



 家につくとアオイは、バスタオルと着替えを持たせてあたしを風呂場の脱衣所に押し込んだ。
「――温まるまで出てくんな」
 そう言ってピシャリと扉を閉める。
 あたしにレインコートを貸したせいでアオイも相当ずぶ濡れだったけど、彼はまず先にあたしを放り込んだ。
 冷え切っていた体に暖かいシャワーを浴びると、鈍くなっていた全身の感覚がじわりと蘇り、生き返るような心地がした。


 着替えをすませてリビングに行くと、ソファーに腰掛けたアオイの後ろ姿が見えた。
 ちょうど携帯電話の通話を切ったところのようだ。
 閉じた携帯を片手に、扉の前に突っ立っているあたしのほうを振り返る。
 そのアオイの表情に、あたしはビクリとなった。
 恐い顔だった。
 いつも朗らかに笑って冗談を言ってる顔とはまったく違う、真剣に怒った顔だ。
「……あの、電話、もしかして」
 近寄ることもできずにたじろぐあたし。
 アオイはソファーから立ち上がり、低い声で言った。
「高梨にだよ。おまえが無事に帰ったって、連絡入れてた」
 ゆっくり歩いてきて、あたしの前まで来る。首にタオルをかけていたけど、彼の髪はまだしっかり濡れていた。
「おまえ、何考えてんだよ」
 あたしはスウェットの布地を握り締めたまま、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
「自分の行動に、責任くらい持てるだろ。子供じゃねぇんだから」
「…………」
「高梨、さっきまでおまえのこと探し回ってたんだ。雨の中、ずっとな」
「えっ……」
 あからさまに驚いたあたしに、アオイは冷たい目線を向けた。
 考えればわかることだ。
 高梨先輩が、突然消えたあたしを放って、一人でさっさと帰ってしまうはずが無い。連絡を受けたアオイがあたしを見つけるまで、ずっとこの雨の中、走り回っていたのだ。
 状況を冷静に理解するなり、あたしはますます言葉を失った。
 デートの誘いに応じておきながら、あたしは……。
 あたしのしたことは、分別のある人間がする事じゃなかった。常識に欠ける行為だった。
 そしてそれは、人に言われて気付くようなことじゃない。
「……謝れ。高梨に」
 いつになく低い声が、アオイの喉から漏れる。
「でも……、携帯、充電が……」
 とっさに言い訳をしかけたあたしは、本当に馬鹿だった。

「――いいから謝れ!」

「…………っ」
 その怒声に体が震え上がった。
 初めて聞いた、アオイの本気の怒鳴り声。
 急速に自分の行いを悔いながらも、その一方で、あたしは別の意味で激しいショックを受けていた。
 別に言い逃れがしたかったわけじゃない。
 アオイに言われなくても、先輩にはきちんと謝るべきだと思う。今ならもう、そのくらいの理性はある。
 それなのにあたしはどういうわけか、アオイの怒りを浴びて反射的に、 心にも無い言い訳を口にしてしまっていたのだ。
 沈黙の室内。
 外の雨は勢いを盛り返していた。再びうなりを上げている雷音が、静まりかえったリビングに響いてくる。
 あたしは泣きそうになるのをこらえて、どうにか一言しぼり出す。
「……謝る。先輩に、ちゃんと」
「…………」
「アオイにも、迷惑かけて、ご、ごめん、なさい」
「…………」
 震える声でなんとか言うべきことを告げると、アオイはようやく険しい表情を少し和らげた。
 あたしは耐え切れずに、そのままリビングから飛び出す。
 階段を上がり自分の部屋に駆け込んで、ベッドの上に突っ伏して。そして布団にしがみついて、声を殺して泣いた。
 アオイの糾弾はもっともで、もっともすぎて、あたしは返す言葉も無かった。
 頭が冷えていく中、自分が恥ずかしくて、許せなくて……。
 初めて本気で怒鳴られたこと、怒られたこと、そしてアオイの冷たい目が自分に向けられたこと――。
 とにかく全てがものすごくショックだった。



 だけど、その夜はまだ終わらなかった。
 何時の間にか眠りに落ちていたらしい。目を覚ますと外は相変わらずの暴風雨で、雷もゴロゴロと不穏に活動していた。
 真っ暗だからもう夜中なのかもしれない。
 腫れぼったい目をこすりながら立ち上がり、部屋の蛍光灯をつけようと壁のスイッチを押した。
 ――カチカチカチ。
 ……おかしい。
 何度押しても灯りがつかない。
 あたしは仕方なく机の上のライトのほうに手を伸ばす。何度もスイッチのタブを動かすけど、そっちもまったく反応しなかった。
 思いついて窓のほうへ駆け寄ってみると、思ったとおり外の景色の中に光が一つも見当たらない。住宅街の中、民家も道路も見事に暗闇だった。
 ――これは停電だ。
 その時、部屋の外、階段の下から声が聞こえた。
「ナツ! 起きてるか!」
 アオイだった。
 あたしは慌ててドアを開けて外に出る。
 真っ暗で何も見えない廊下に、アオイの大声が響いていた。
「停電みたいだ! 今懐中電灯探してくるから、それまでむやみに動くなよ!」
 どうやらアオイは階段の下にいるらしい。
 ちょうどそのあたりから声が聞こえる。
「わ、わかった!」
 あたしが返事すると、アオイはリビングの中に戻っていった。しばらくして、納屋の扉を開けて家捜ししてるような音が聞こえてくる。
 あたしは結局じっとしていられなかった。
 感覚を頼りに手すりに手を滑らせ、距離感を掴みながらゆっくり階段を降りる。 壁伝いに廊下を進み、リビングのドアまでたどり着いた。
 扉を開けて中に入ると、気配を察知したのか、奥のほうからアオイの声がした。
「おまえって奴は、言ってるそばから……。……おっ、あった」
 どうやら彼は懐中電灯を探し当てたらしい。
 しばらくガチャガチャと何かをいじるような音がして、パっと、部屋の奥に小さな光が灯った。
 アオイはその光をあたしの方に向けて歩いてくる。
 懐中電灯を持っていない方の手に、なにかリュックのような荷物をぶら下げていた。 備えおきの救命リュックのようだ。
 あたしの前まで来ると、アオイは窓にライトを向ける。
 激しい雨が窓ガラスにぶつかっているのが見えた。
「この降り方、なんかヤバイな。さすがにあの時みたいなことはないだろうけど、最悪、床下浸水くらいは覚悟しといたほうがいいかもな」
「……うん」
 あたしは、停電の恐怖をさほど感じていなかった。不謹慎だけど、アオイが普通に話してくれることに内心安堵していた。
 それに、そもそもアオイが側にいると思えば、停電なんてたいして恐くもなかった。
「ねえ、今何時?」
「11時だ。ちょうど」
 懐中電灯の光が、今度は壁の掛時計に向かって照らされる。
 アオイの言った通り、針はほぼぴったり11時を指していた。
 ということは、あたしはどうやら3時間は眠っていたらしい。どうりで頭がすっきりしているわけだ。
 呑気に納得していると、次の瞬間、時計を照らしていた光がパッと消えた。
「な、なに? なんで消すのよアオイ!?」
「違うって。消したんじゃなくて、多分電池切れ。……父さんだな。シェーバーの電池と入れ替えたまま忘れてやがった」
「そ、それなら、買い置きの電池があったはずだよ」
「マジか。どこにあんの?」
「えーと、確かテレビの横のチェストに……」
 何も見えない中で、あたしは手探りでソファーの方へ向かう。
 その先にテーブルとテレビと、四段のチェストがある。
「いや、待て。そっちなら俺が取りに行くから」
 背後にあったアオイの気配が動いて、あたしの横を通り過ぎた。
「あたしのほうが場所わかるって!」
 あたしはアオイの影を追い、大幅に歩みを進める。
 が、足元に転がっていた何かに、思いっきりけつまずいてしまった。
「………わっ!」
「――うわッッ」
 バランスを崩して前のめりになった瞬間、何かに衝突した。
 何かに……、アオイしかない。
 思っていたより近くにいたらしい。
 おかげで思いっきり転倒したにも関わらず、衝撃はほとんど感じなかった。
 あたしは冷たい床ではなく、どうやらアオイの体の上に倒れこんでいた。
「……ってぇ」
 アオイの軽いうめき声。それは耳のすぐ横から聞こえた。
 体の下に感じる生暖かい体温に、衝撃が走った。
 とっさに体を起こそうと、床に手をついて上半身を持ち上げる。
 けれど、その次の瞬間。
 またとんでもなく絶妙なタイミングで……。
「………っ!」
 部屋の蛍光灯たちが一斉に復活した。
 突然に開けてしまった、明るい視界。 急激な眩しさに一瞬目をしかめたものの、あたしはすぐに自分たちの際どい体勢を目の当たりにした。
 腕をついて起き上がりかけていたあたし。その顔のすぐ下に、アオイの顔があった。
 互いの息がかかり、鼻が触れ合うほどの至近距離で、あたしの髪がアオイの顔に影を落としている。
 アオイの大きく見開かれた両目に、あたしの顔がドアップで映っていた。
 あたしたちはちょうどソファーとテーブルの間で、重りあうように倒れこんでいた。
 二人の足が見事に交差した体勢で。 しかも転倒時にとっさに受け止めてくれたアオイの手が、あたしの腰のあたりを押さえたままで。
「…………」
「…………」
 極限まで瞠目して固まっているお互いの顔。
 固まっていたのは体の動きも同じだった。
 静かな部屋に、やけに長くて不自然な静寂が流れていく。
 状況を理解するや、あたしは自分の心臓が狂ったように暴れ出すのを感じた。
 そして、ほぼ同時に――。

 ――――ピリリリ……ピリリリリリリッ……!!

 閉鎖された空間に切り込みを入れるかのように、電話の呼び出し音が鳴り響く。
 緊迫した部屋の空気は外から破られた。
 慌てて起き上がるあたし。アオイも我に帰ったようにあたしから手を離した。
 あたしは電話の前に滑り込むように走り寄り、受話器を掻っ攫うように取り上げる。
『――もしもし!? ナツ!? アオイくん!?』
 電話の向こうから、こちらの第一声も待たずにお母さんがの声が叫んでいた。
「も、もしもし、お母さん?」
『ナツね? ……ああ、ようやく繋がった! 大丈夫なの? そっちに大雨警報が出てるって聞いて、心配して電話したらちっとも繋がらないんだもの』
「あの、停電、だったんだよ。さっきまで……、ちょっとの間だったけど、今ちょうど復活して……」
 状況を説明しながらも、あたしの意識は電話の方には向いていなかった。
 首から顔に、急激に熱が這い上がってくるのを感じていた。
 あたしの顔は今、多分真っ赤どころの話じゃない。 心臓の暴れ様は、胸ごと破裂してしまいそうなほどに勢いを増していた。
『よかったわー、何とも無くて。お母さんたち明日帰るけど、念のため、今夜はいつでも逃げられるようにして寝るのよ? いい?』
「う、うん、わかってる」
『アオイくんにもちゃんと伝えてよ? 何かあったら二人で協力してね?」
「うん。わかってるって。大丈夫だから」
 お母さんはあれこれと何度も念押しをして、ようやく電話を切った。
 あたしはゆっくり受話器を置いて、そのまましばらく動くことができなかった。
 (ど、どうしよう……)
 呼吸を落ち着かせるため、深呼吸をしようとする。
 が、それより先に背後から声がした。
「母さんから? 何て?」
 すぐ真後ろにアオイの気配を感じて、あたしはびくついた。
 ロボットみたいにぎこちない動きで振り返るけど、とても顔を見ることなんてできやしない。
 ただ、この激しい動揺を悟られまいと必死だった。
 ここでボロを出すと、一生アオイと気まずくなってしまうと思った。 修復不能な事態にまで陥ってしまうかもしれない。
 まさかあたしがアオイを意識してるなんて、そんなとんでもないこと……、絶対に本人に知られてはいけないのだ。
「う、うん、なんか、警報が出てたから心配してかけてきたみたいで、今晩は用心して寝ろ、って……」
 必死に平静を取り繕って答えたつもりだけど、少し声が裏返ってしまった。
「そっか」
 アオイの顔には少しも動揺の色など見られず、口調はごく日常的に落ち着いている。
 あたしだけが、窮地に立たされているようだった。
 とにかく一刻も早く顔の熱が早く引き下がるよう念じていた。
 そんなあたしに向かって、アオイはさっきの懐中電灯を差し出した。
「これ、電池新しいのに替えたから、寝るとき枕もとに置いとけよ」
「……う、うん。ありがと」
 あたしが受け取ると、アオイはそのまま背をむけてソファーの方へ向かう。
 見ればテーブルの上に、参考書やノートが沢山広げられていた。きっと停電になるまでここで勉強していたのだろう。
 ちょうどそのテーブルの脚のあたりに、大きなスポーツバッグが見えた。
 あたしはさっき、あれにけつまづいたのだ。
 ――そのバッグの中からのぞく、一冊の赤い本。
 それを目にしたとたん、一気に気持ちが冷えていくのを感じた。
 その本は大学の過去問の参考書で、表紙にはっきりと書かれた学校名は、東京のK大のものだった。
 あたしの胸がチクリと痛む。
 結局アオイはあたしにもお父さんたちにも何も話さないまま、もう決めてしまったのだろうか。
 過去の約束に反する選択。 それがどれほどあたしにダメージを与えるかも知らず、彼はいまだに隠し続けるのだ。
 勉強を再開して参考書のページを繰っている、やや前のめりのアオイの背中。すっかり何事も無かったみたいに、自分の世界に戻って集中しているように見えた。
「……あたし、もう寝るね」
 ボソリとした声でつぶやき、あたしは静かに部屋から出る。 背中の後ろで扉を閉めて、また自分の部屋に駆け込んだ。
 その夜はなかなか寝付けず、何度も寝返りを打っては天井と睨めっこをしていた。
 意識が遠のいてきた夜半すぎに、ようやく雨はあがったようだ。
 夢うつつのおぼろげな意識の中で、隣のアオイの部屋の扉がそっと閉じる音を聞いた。

 ――あたしはまだ何も知らなかったのだ。
 アオイの抱える本当の秘密も、その時彼が直面していた難題にも、気付くことなど到底不可能だった。





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