ナ ツ ア オ イ
壊さないで 1
波乱の夏休みが終わり、たっぷり残暑を残したまま新学期が幕を開けた。
乾いた風が、校舎の最上部を撫でるように吹き抜けていく。
その風の煽りを受けて、視線の先にある黒い髪が揺れていた。
「――すみませんでした。ほんとに、ごめんなさい……」
始業式が終わったあと、あたしは高梨先輩と二人で屋上にいた。
この間のことをちゃんと謝るつもりで、先輩をメールで呼び出して、わざわざここに来てもらったのだ。
「いいよ、もう気にしてないから」
あたしの謝罪に、背をむけたまま短く答える。
その声は予想していた以上に素っ気無いものだった。
別に、前と変わらず優しくしてもらえることを期待していたわけじゃない。
だからそれほど驚きはしないけど、どうしても悲しい気持ちになってしまった。
あたしの行動は先輩に多大な迷惑をかけただけでなく、明らかに心を傷つけてしまったのだ……。
今更何か言ったところでどうにかなるものではないけれど、それでも弁明せずにはいられなかった。
「あの、あたし、先輩のことは本当に素敵だと思ってます。優しいし、一緒にいて楽しかったし……。
でも……」
ありきたりな言葉を並べたうえ、肝心なところで言葉につまってしまった。
はっきり言ってヤブヘビだった。
空気を更に冷え込ませてしまった気がして、あたしはすぐに後悔した。
そんな中、グラウンドを見下ろしながら片手をフェンスに絡めていた先輩が、こちらを振り返る。
「――『でも』、なに?」
意外にも、途中で途切れたあたしの言葉の続きを求めてきた。
先輩の様子はなんだか変だった。
その声にも表情にも、明確な感情といえるものは読み取れない。
いつもの”好青年”的な微笑みは、今は微塵も浮かんでいなかった。
無に近い表情で、あたしのことを少しの間見つめていた。
それから、一歩、また一歩と、歩みを進めて距離をつめてくる。
「ごまかさないで、そこはちゃんと言ってくれないと」
「…………」
そうは言われても、言葉がうまく出てこない。これまで接したことのない先輩の態度に、少なからず当惑していた。
ゆっくり近付いてくる気配に神経を尖らせながら、コンクリートの足場に目を落とし、
ぎゅっと手の平を握りしめる。
後退して距離をとりたくなるのを堪え、どうにかその場に踏みとどまっていた。
「ねえ、広川さん……」
静かな声は、どことなく危険な甘さを孕んで呼びかける。
先輩の手があたしに向かって伸びてきたかと思うと、突然顎(あご)を掴まれた。
「…………!?」
反射的に目を見開いた。白くて長い指が、あたしの顔を持ち上げていた。
穏やかさと冷たさの間を揺れ動くような、際どい先輩の表情。馴染みのない瞳が、すぐ目の前にあった。
「あたし、その……」
真正面から視線を絡め取られたまま、心臓が嫌な暴れ方をするのを感じていた。
(先輩、どうしてこんな……)
怒っているのだとしても、これはどういうことなのだろう。
戸惑いに満ちたあたしの顔を見下ろす双眸が、すうっと細くなった。
同時に乾いた声が降りかかる。
「驚いたよ。あの程度で逃げ出されるなんて思わなかったから。別に押し倒したわけでもないのに、
正直、ありえないよね?」
「…………」
それは、いつもの、あたしが知る高梨先輩とは明らかに違う声色で。
その冷え冷えとした響きは、初めて彼に対して明確な警戒心を抱かせた。
優しげな形なのに、どこか冷たい黒い瞳。
真上から顔を覗き込まれ、あたしは瞬きの動きさえぎこちなくなる。
「恐がらせないように、あれこれ時間かけて工夫してきたつもりだけど、さすがに馬鹿らしくなったな」
「あ、あの……」
「俺、ちゃんと最初に言ったよね? 打算で動く人間なんだってこと。要するに、
見返りもなく優しくするつもりなんて最初からなかったんだけど……」
ようやく先輩の表情が動いたかと思うと、そこには冷淡な薄笑みが浮かんでいた。
「さて、どうやって返してもらおうかなぁ。今までのぶん……」
「…………」
まるで別人のようだった。ひょっとして人違いをしているのではないかと思うほどに。
だけど綺麗に整ったその白い顔は、高梨先輩以外の誰でもなく。
その顔が間近に迫ってくる。
つかまれた顎はピクリとも動かず、逃げることは許されなかった。
――嫌だ。
とっさに感じたのは、あの時と同じ拒絶衝動。
あたしはぎゅっと目を閉じて、奥歯を食いしばる。せめてもの抵抗の意を示そうとした。
それでもまだ、豹変した先輩の態度が信じられず、心の中では泣きそうになっていた。
――先輩が、まさか、そんな……。
(悪いのはあたしかもしれないけど、でも……)
強く閉じた瞼の隙間から、いよいよ何かがこぼれ落ちそうになった時。
あたしの鼻先のあたりで、ぷっと吹き出すような声が漏れた。
続いて響いてくる、くぐもった笑い声。
そのうちに、あたしの顎は解放されていた。
おそるおそる目を開くと、口元を押さえておかしそうに笑いを殺している先輩の姿が見えた。
「…………」
あたしはしばらく、呆気に取られた間抜け面を日の下に晒していた。
やがて先輩は横流しの視線を向けながら、柔らかく笑う。
それは紛れも無く高梨先輩特有の、あたしが何度も見惚れた甘い微笑で……。
「ゴメン。怯えてる広川さんが可愛くて、つい悪ふざけがすぎた。……おかしいな、
俺、別にSの気は無いはずなんだけど……」
目の前で笑っている先輩は、確かにいつもの先輩だった。
とりあえずほっとして、心臓の音が静まってくる。
だけどあたしは、まだ混乱が抜けきらない状態で、彼の顔を穴が空くほど見つめていた。
「あの、先輩、お、怒ってないんですか……?」
「怒るもなにも、あれは俺も悪かったんだし」
いつもと変わらない穏やかな表情で言葉を返す。
「それに、広川さんが無事だったんだから、もういいよ」
『広川さんが無事だったんだから』。その言葉に胸が痛くなった。
――そうだ。
自分の感情に振り回されるだけだったあたしを、先輩は本気で心配してくれていたのだ。
アオイに糾弾されるまで、自覚すらしなかった自分が、とてつもなく恥ずかしい人間に思えた。
先輩はふと何かに気付いたように一端言葉を切り、そして自嘲的に口の角をあげる。
「なんでかな、俺、広川さんの前ではあっさり理性が崩壊する」
その一言は、あたしの心を波立たせた。
「俺のほうこそ、謝るべきなんだ。……ごめん。広川さんの気持ちを知っていながら、あんなことして」
――あんなこと。
なんとも気まずい思いが湧いてきて、あたしは視線を宙に泳がせる。それはやがて行き場を失って足元に落ちた。
あの時の出来事を思い出すと、先輩の顔をまともに見ることはできなかった。
どう言葉を返していいのかわからない。
(ここで謝るのも変な感じがするし……)
困り果てて黙っていると、今度は冗談と苦笑の交じった声が飛んでくる。
「正直言うと、さすがに少し凹んだけどね。まさかそこまで嫌われてるとは思わなかったから」
言葉の内容とは裏腹に、さっぱりしたような明るさがあった。
一方であたしは、彼の発言を否定するべく慌てていた。
「ち、違います! あたし、嫌ってなんて……。そんなことは絶対に無いです!」
あたしは別に、先輩に対して嫌悪感があるわけではない。
そんなことは本当にとんでもないことで、今でも先輩は素敵な人だと思う。
意外な面も色々見せられたけど、それでも好印象は変わらない。
だから、あの時の拒絶は、そういうのとは絶対に違う。
違うのだ。
あたしの本気で焦った表情に、先輩はなぜか楽しそうな顔をしている。
「嘘だよ。わかってる。広川さんはただ一途なだけだよね。本当に好きな人としか、
そういうことのできない子なんだ」
再度思いがけない言葉が飛んできて、反応に困った。
(『本当に好きな人としか』、って……)
こればかりは何と答えていいのかわからない。
先輩のほうは、あたしの複雑な表情にも頓着しない様子で、淡々としていた。
「とりあえずは、”小休止”ってとこかな。俺も受験だし、広川さんもこれから色々大変だろうから……」
意味深な目線を向けてくる先輩を、あたしは疑問符を浮かべた顔で見返す。
「小休止……?」
「そう、小休止。終わりじゃなくて、一休みするだけってこと」
風で目元にかかる髪をかき上げながら、先輩は目を細めた。
「俺、結構諦め悪いから、覚悟しといてくれる? 焦らなくても、時間はたっぷりあるだろうし」
(え、えーっと……)
(それって……)
口が半開きの状態で、呆然とするあたし。
先輩はニッコリ笑いながら、更に言い募った。
「なんとなくだけど……、広川さんとは長い付き合いになりそうな気がしてるんだ」
「…………」
何を見据えて話しているのか、よくわからない言葉だったけど。
金魚のようにパックリ口を開けたままのあたしを、その時の先輩はドキっとするほど優しげに見ていた。
先輩のその”予言”が、後に現実になるなんて、このときのあたしにはさっぱり想像の及ばないことだった。
穏やかな先輩の顔は、やはりどこか楽しそうでもある。
見様によっては、あたしの顔色の変化を面白がっているようでもあって……。
(この人、もしかしなくても結構意地悪な人なのかもしれない……)
何度も翻弄される中で、あたしはようやく高梨先輩という人の本質に触れたような気がしていた。
ただ、それでも、根本的な優しさは変わらない人だった。
「――アオイはさ」
ふと真剣な表情に戻り、先輩は遠くを見ながら言った。
「広川さんのこと、本気で大切に思ってるよ。多分、広川さんが思ってる以上に」
唐突に切り出された話に、驚いて顔をあげる。
青い空をバックに、先輩の綺麗なシルエットがぼんやり光って見えた。
「どういう種類の感情であれ、それだけは間違いないと思う。
だから……、本来なら俺があれこれ干渉すべきことじゃないけど、一つだけ」
先輩はあたしの目をまっすぐに見る。
あたしはまだ、何も知らなかった。
このとき先輩は、あたしの知らないアオイの秘密を既に知っていたのだ。
「今日の午後1時。大山手駅前のホテル・シティロイヤル」
「え……?」
「そこに、アオイがいるはずだ。行けば、あいつの考えてることがわかるかもしれない」
突然飛び出した突拍子も無い言葉が、一体何を意味するのかさっぱりわからなかった。
あたしは軽く首を傾ける。
「ホテル? って、どういうことですか? アオイとどういう関係が?」
混乱するあたし。
だけど先輩は、それ以上詳しく話すつもりはないようで。
足元にあったカバンを拾い上げて、既にその場を去ろうとしている。
「実はファミレスで広川さんが先に帰ったあの日、後でアオイから色々聞いたんだ。
でも、さすがに俺から話すようなことじゃないから……」
拾い上げたカバンを肩にかけて、あたしの横を通り過ぎる。
それから肩越しに先輩は振り返った。
「あとは広川さんが自分で確かめてきて」
「……あたしが? ……自分で? って……」
オウム返しにも似たあたしの問いかけに、先輩はただ含みを持たせるように頷いた。
それから校舎内に戻るべく扉を開ける。
「健闘を祈ってる」
一言だけ言い残すと、軽く手を振って出て行ってしまった。
(……健闘?)
残されたあたしは、とにかくわけがわからないまま、先輩の言葉を改めて検証するように思い返していた。
――『今日の午後1時。大山手駅前のホテル・シティロイヤル』。
しばらく考えるうちに、ひらめくように思いついたことがあった。
それは少し前に別の人間から聞いた、ある奇妙な情報だった。
あれは、あの停電の夜の翌々日のことだ。
出かけた先の本屋で、意外な人物と遭遇した。
レジで会計を済ませたあたしの視界に、見覚えのある男の子の姿があった。
難しそうな専門書の並ぶ書棚の前に、なんだか不釣合いな人物がいる。
金茶の髪と、派手なピアス。その目立つ外見は、人違いのしようがないものだった。
「あ……」
思わず声を出すと同時に、相手もこちらに気がついた。
「…………」
挨拶の言葉を口にするでもなく、彼はどことなく居心地の悪そうな顔をして目をそらす。
「か、川瀬くんも、買い物?」
「……ああ」
あたしの問いかけに、ボソリと低い声で返事を返した。
彼は、持っていたハードカバーの本を書棚に戻し、そのまま店から出て行ってしまう。
あたしは、少し慌ててその後を追った。
「ねえ!」
追いかけていったことが予想外だったのか、川瀬くんはやや驚いた表情で振り返った。
照りつけの厳しい真昼間。
街路樹の影が疎らに落ちる歩道で、しばしの沈黙が流れる。
あたしは勇気を出して、口を開いた。
「あの……、――ごめんね」
たった一言だ。
だけどそれだけで、川瀬くんには何のことか伝わったようで。
彼の表情がピクリと動き、やや伏せ目になった。
それから彼はまた、短く低い声で「ああ」とだけ答える。
再び沈黙が舞い戻った。
ここまで口数の少ない人間を相手に話をするのは初めての事で、あたしは緊張していた。
だけど予想に反して、相手は少しも怒っている様子はなかった。
「あの……、あたしも唯も、先走ってあんな風に川瀬くんを批難しちゃって、ほんと反省してる。
余計なことして、ごめん」
「……別に。気にしてないから」
ぶっきらぼうな口調と表情。愛想なんてあったもんじゃないけど、決して悪意が感じらられるわけじゃない。
流れる空気にも、不快な感覚はなかった。
あたしは初めてまともに、川瀬洋介という男の子を見た。
ボソリとした声でつぶやいたきり、彼は遠い目をして黙りこくっている。
しばらく迷ったあと、あたしは思い切って切り出した。
「あの、それで、その後春香とは……」
「…………」
春香の名前を出した瞬間、意外と大きな瞳がかすかに揺れたように見えた。
あたしは率直に知りたかったのだ。
彼が今、春香のことをどう思っているのか……。
泣き崩れながら川瀬くんのことを話した春香の姿が、まだ目に焼きついていた。
だけど、話を切り出したはいいものの、内容があまりに直球すぎる。いざ本人を相手に、どういう言葉で聞き出せばいいのかなんてわからない。
「やっぱり、まだ辛い……よね。その、あたしたちも、色々ショックだったし。えーと……」
相手を不快にしないよう、核心を避けすぎて、的を射ない言葉を連ねるあたし。
自分でも少しじれったさを感じていると、ふいに川瀬くんはじっとあたしの顔を見る。
そしてあまりに想定外のことを言ってのけた。
「俺は、知ってたから」
「……え?」
「相手の奴と池内の間に何があったのか、全部わかってたから」
「…………」
とてつもない衝撃発言に、あたしは声を失っていた。
(知っていた?)
(……それって……)
「そもそも、そんな事態になったのは、俺にも原因がある。俺の責任でもある。だから……」
――だから俺は、池内を責めたりしない。
彼はそう、はっきりと言った。
「川瀬くん……」
「あいつに時間が必要っていうなら、俺はいくらでも待つつもりだし」
意志の強そうな鋭い瞳は、確固たる決意をそのまま語っているようだった。
あたしが言葉を挟む隙も無いほどに。
彼の意思はとてもしっかりしていて、あたしはその時、それ以上何も確認する必要なんてないんだと感じた。
この短い間に、二人の間に起きた事が何だったのか……。詳しい事情は依然わからない。
だけど多分、この先は春香と川瀬くんの間の問題なのだろう。
というより、最初からあたしや唯がしゃしゃり出る必要なんてなかったのかもしれない。
川瀬くんを見ていると、そんな風にも思えてきた。
以前、嬉しそうに彼のことを話していた春香の顔をあたしは思い出す。心の中がじわりと温かくなって、
そしていっそう悲しい気持ちにもなった。
もう一度、二人には幸せに笑ってほしかった。
で、その川瀬くんが別れ際、あたしに思いもよらないことを告げたのだ。
「――そういえば」
何かを思い出したように、立ち去ろうとしていた足を止め、彼は振り返った。
「この間、あんたの兄貴、見かけた」
あまりに唐突な話題だった。
「3年の広川、って、あんたの兄貴だったよな?」
「……えっと、そう、だけど」
「大山手のシティホテルのロビーで、見た。確かに、アイツだったと思う」
その時のあたしには、その情報の重要性について思い当たるものがなく、
緊張感の無い顔で首をかしげていた。
「あんま高校生が出入りする場所じゃねぇし、目に付いて、すぐにわかった」
「……へえ」
突拍子もない話に、眉をひそめて困惑するあたし。何に驚けばいいのかもわからなかった。
そんなあたしの間の抜けた反応に、川瀬くんは微妙な表情になる。
「別に、だから何ってわけじゃ、ねぇけど……」
なにやら面倒くさそうに言うと、今度こそ背を向けて行ってしまった。
高梨先輩の話は、そんな風に川瀬くんの言葉とリンクしていたのだ。
あたしは慌てて屋上からの階段を駆け下りて、校舎から飛び出した。
なんだか嫌な予感を感じて、駅に向かって走りながら……。
それでもあたしはまだ気付いてすらいなかった。
迫りくる、崩壊の嵐の始まりに。
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