ナ ツ ア オ イ
壊さないで 2
大山手市にはしょっちゅう足を運ぶけれど、駅前のシティホテルに足を踏み入れたことはなかった。
駅ビルの真正面に立つ、数年前に大規模な改築が行われた立派な建物。
それこそがそ『ホテル・シティロイヤル』。
先輩と川瀬くんの言っていたホテルだ。
噴水に囲まれてアートなモニュメントが聳え立つ正面玄関は、ちょっとした待ち合わせスポットにもなっている。
ここら一帯には他に宿泊施設も無く、ビジネスやら観光やら、雑多な利用者が出入りしているらしい。
とはいえ高校生が気軽に入れるような雰囲気ではない。
制服姿のあたしは、正面玄関の自動扉をくぐった瞬間、引き返したい気持ちに襲われた。
貼り付いたような笑顔のボーイさんが、あたしの前に立ちはだかる。
「ご予約のお客様でしょうか?」
「あ、その、いえ……」
あたしはガチガチに緊張しながら、目に見えて挙動不審になる。
自分の行動が急に後ろめたいものに思えてきて、冷や汗が流れた。
――だけど……。
ここにアオイがいるというのなら、その姿だけでも確認したい。
高梨先輩の話していたことの意味を、ちゃんと理解したい。
あたしは頑張った。
「ま、待ち合わせです。ロビーで、知り合いと」
「左様でございますか。ではご案内致しましょう」
「…………」
サービスの行き届いたホテルだった。
ものすごく余計なサービスが……。
さっそうと先導する若いボーイさんの腕を、あたしは慌てて引っ張った。
「……あの、結構です。先にお手洗いに行きたいので」
ボーイさんは少し驚いた顔で瞬きをする。
顔には出さないけど……。
(この人絶対、あたしを怪しんでる……)
「かしこまりました。化粧室はあちらになっております」
白手袋の手で示された方向に、あたしは逃げ出すように走り去る。
不審者に見えないように意識したつもりが、よけいに不審な行動をとってしまった。
制服は、ちょっとマズかったかもしれない。
ボーイさんが遠くへ行ったのを確認し、あたしは曲がり角の影に身を潜めながらラウンジ全体の様子をうかがう。
開放感のある吹き抜けの天井が中央にある。
中庭が見渡せるように奥の壁は全面ガラス張りだった。
その窓ガラスに沿うように、喫茶用のソファーとテーブルが並んでいる。
何組かの客がそこで談笑しているのが見えた。セレブなマダム系の人から、ビジネス関係っぽいおじさんもいる。
あの中のどこかに、アオイがいるというのだろうか……。
あたしは腕時計で時間を確認する。
既に午後1時20分だった。
注意深く目を凝らしていたあたしは、探していた人物の姿を見た。
――アオイ。
随分奥まった場所だったけど、後ろ姿ですぐにわかった。
光を浴びてより明るく見える髪の色、制服の白いシャツの背中、くたびれたスポーツバッグ……。
情報は間違いなかった。
だけど……。
(これはいったい、どういうこと?)
アオイはテーブル席のひとつに腰掛けていた。
一人ではない。知らない女の人と一緒だった。
何か話しているようだ。
こちらに背を向けているアオイとちがって、その相手の人の顔はこちらからよく見える。
アオイとはなんだか親しげな様子だった。年齢は40台くらいの、どことなく都会的な雰囲気の……。
あたしは吸い寄せられるように思わず近付いていった。
その知らない女の人の顔に、目が釘付けだった。
――違う。
――”知らない女の人”、なんかじゃない。
(あれは……)
誰かにあまりにもよく似た目元と輪郭。一目でピンときてしまう、その見覚えのある顔立ち……。
大昔にたった一度だけ、会った事がある。
(あの人は……)
「――あら」
迂闊にも近付きすぎていたあたしの存在に、その女性が先に気付いてしまった。
あたしをマジマジと見つめ、何度か瞬きをしている。
次の瞬間には、アオイもこちらを振り返っていた。
彼はあたしに気付くなり、目を見開いて勢いよく立ち上がる。
「……ナツ!?」
アオイの驚き方は相当なものだった。
立ち上がったまま、あたしを凝視して動かない。
あたしのほうは、見つかってしまったことよりも、目の前の光景にうろたえるあまり、冷静な思考を失っていた。
こちらに向けられるアオイの顔。その向こうから、なんともいえない表情でこちらを見ている女の人の顔。
その二つは、あまりにそっくりだった。
――――アオイの実のお母さん。
その人が、なぜかアオイとそこにいた。
「ナツ、おまえ、どうしてここに……」
相当狼狽した様子のアオイ。ここまであからさまにうろたえる彼も珍しい。
あたしはようやく少し冷静になると、さすがにその場にはいられなくなり、慌てて退散しようと踵(きびす)を返す。
だけど、意外な声があたしを引きとめた。
「――待ってちょうだい」
硬質な女性の声が、背後からかけられる。
あたしは立ち止まって、恐る恐る振り返った。
声の主である女の人……、アオイのお母さんは立ち上がり、微笑を浮かべてあたしを見ていた。
アオイのほうは、そのお母さんの行動にもかなり動揺している。
「……奈津さん、でしたわよね? 奈保子さんの娘さんの」
『奈保子』とは、あたしのお母さんの名だ。
『奈保子さんの娘さん』という言い方は、この状況で、あまり気持ちのいい呼ばれ方ではなかった。
「一瞬わからなかったわ。以前に一度お会いしたときは、まだこんなに小さかったから」
『こんなに』と、片方の手の平を膝のあたりに降ろして子供の頃の身長を示す。
アオイのお母さんは、もう一度あたしに微笑みを向けた。
「覚えていてくださってるかしら……? 随分久しぶりだから、もう一度ちゃんとご挨拶しておかなくちゃね」
あたしの前まで歩いてきて、手を差し出す。
「改めまして。葵の母の、倉元美雪です」
『葵の母』。ことさらその部分を強調したように聞こえた。
あたしは戸惑いながら、その人、”美雪さん”の顔と、差し出された手を見比べていた。
どことなく儀礼的な笑顔をぶつけられて、どういう顔をすればいいのかわからない。
とりあえず、ためらいがちに握手に応じた。
アオイはその様子を、横から落ち着かなさそうに見ていた。
「……どういうつもりだよ。母さん」
――母さん。
彼がそう呼ぶ声に、なぜだかザワリと胸が鳴る。
「あら、ちょうどよかったじゃない。せっかくこうしてお会いできたんだから、一緒にお話を聞いてもらおうと思ったのよ」
「話って、待てよ、ナツはまだ……」
いまだ動揺を隠し切れないアオイに、彼女はピシャリと言葉を投げる。
「いつまでも黙っていたって、仕方が無いでしょう。ちょうどいい機会だわ。この際包み隠さず話しておいたほうが、あなただって迷わずにすむのよ」
二人が、なんの話をしているかなんて想像もつかなかった。
ただあたしは、美雪さんの口振りとアオイのいつになく焦燥感の滲んだ表情から、不穏な予感がいっそう膨らむのを感じていた。
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