ナ ツ ア オ イ

壊さないで 3



 アオイの隣の席についたあたしは、借りてきた猫のように小さく萎縮していた。
 美雪さんの注文で運ばれてきたあたしのぶんのアイスレモンティー。
 汗をかいたようなグラスに目を落としながら、正面に座った美雪さんの顔に何度かチラチラと 盗み見るような視線を向けていた。
 アオイのお母さんについて詳しいことは知らないけれど、昔は国際線の客室乗務員だったという話は 聞いたことがある。
 洗練されたメイクの雰囲気に加え、やや派手めの服装や所持品からも、なんとなくそんな感じはした。
 外見だけの話をするならば、アオイは完全にお母さん似だ。
 少し目尻の下がった瞳、耳元から顎にかけてのシャープな輪郭。 そして細くて柔らかそうな髪質までもがそっくりだった。
 でも、どんなに似た顔でも、表情一つでこんなにも印象が違う。
 アオイとよく似たその人は、アオイのように陽気で優しい雰囲気を醸し出してはいなかった。
 表面的な笑顔はどことなくあたしを探っているような感じでもあり、好意が感じられるものではない。
 鮮やかなルージュがひかれた唇から、ゆっくりと切り出された話は、あたしにこれまでにない衝撃を与えた。

「――葵をね、うちで引き取りたいのよ。正式に主人の養子としてね」

 一瞬、言われたことの意味が理解できなかった。
 もちろん日本語として言葉の意味はわかる。 だけど、現実に当てはめるための思考が追いつかない、そんな感じだった。
 あたしは反応らしい反応もできず、おずおずとアオイのほうに顔を向ける。
 そして更に驚いた。
 アオイは険しい目で美雪さんを睨んでいた。
「勝手なことを言うな。それはとっくに断ったはずだ」
 美雪さんはあたしに向けていた視線を、アオイに移した。
「あら、まだ交渉中のはずよ。だからあなたはこうしてここにいるのでしょう」
「……だったら、決まったことのようにナツに言うのはやめろ」
「決まったも同然じゃない。葵、あなたは私たちと一緒に東京で暮らすの」
「だから……っ」
 苛立ちに顔をゆがませるアオイ。
 二人のやり取りに、あたしは思わず口を挟んだ。
「どういうことですか? アオイを引き取るって、それって……、アオイはあたしたちの家族じゃなくなるって ことですか?」
 自分で口にしながら、背筋が凍りつくような衝撃があった。あたしは愕然としていた。
 アオイが何か言いたげにあたしのほうを見る。
 でも、返答は美雪さんのほうが早かった。
「そういうことになるわね」
 端的な肯定の言葉に、あたしは顔を強張らせた。
 アオイと同じ形でありながら、アオイとは全く違う感情を映す目があたしを見据えている。
「そんな……」
 提示された現実に、ただ震撼していた。
 考えたことすら無い展開だった。アオイが、あたしたちの家族からいなくなるなんて……。
「ナツ、俺は断ったんだ。そんなことはありえない」
 横からアオイが強い口調で否定する。
 縋るような、虚ろな目を向けるあたしに、彼は強くうなづいてみせた。
 そこに、水をさすように割って入る声。
「葵、私はあなたにこれ以上妙な苦労はさせたくないの」
「……苦労、だと?」
 再び剣呑な目つきで美雪さんを見るアオイ。
「ええ、そうよ。苦労だわ」
 言いながら、美雪さんは細い眉をひそめてあたしに視線を流す。
「奈津さん、こんなことを言うのはなんだけれど……、こんな田舎に引っ越してきたのは、 もともとあなたの病気のためでしょう?」
「…………」
 あたしはうつむいた。
 確かに、あたしの喘息(ぜんそく)がなければ、ここに越してくることは無かったかもしれない。
「あの人の、広川の考えにどうこう口出すつもりはないけれど、でも、母親として葵の将来を考えるなら、 とても好ましい環境とは思えないわ。それに……」
 美雪さんは更に眉間に皺を寄せる。
「それに、あなたたち親子には借金があるのでしょう。まさかとは思うけれど、そんなものまで葵に 背負わせるつもりなら、私は黙っていられないのよ」
 ――借金。
 あたしの実のお父さんが入院中、大掛かりな手術を受けるためにつくった借金は、 わずかだけれど今もまだ残っているらしい。
 そのためにお母さんは、ずっとパートに出て働いているのだ。
 その借金だけは、お父さんの世話になるわけにはいかないからと言って、お父さんの反対も押し切って、 お母さんがそう決めた。けじめなんだと言っていた。
 だからその借金をアオイが背負うなんて、絶対にありえないことだ。
 美雪さんが心配するようなことではない。
 あたしが否定するより先に、アオイが声を荒げた。
「いい加減なことを言うな。何も知らずに……、部外者が勝手なこと言ってんじゃねえよ!」
 ”部外者”という言葉が気に入らなかったのか。美雪さんは少しムスっとした表情になり、 その顔をそのままあたしに向ける。
「奈津さん、わかるかしら? 葵はこの通り、義理堅い性格だから、どうしたってこういう反応しかしないわ。 だけど葵は自分でも知らないうちに、縛られているんだと思うの。あなたたちという存在に」
「なにを……」
 口を挟みかけたアオイを無視し、美雪さんは強い口調で言い放つ。
「まるで家族ごっこだわ。広川は自分で望んだ再婚だから……、それで満足かもしれないけれど、 それに縛られる葵はとんだ貧乏くじよ。血のつながりの無い人間を母と呼び、突然できた妹を兄として 守らなくちゃいけないなんて」
 最初に浮かべていた表面的な微笑みは、いつしかどこかへ消え失せている。
 あからさまに嫌悪感さえ滲ませるような声が投げつけられた。
「ねえ奈津さん、そろそろこの子をあなたたち親子から”解放”してあげてくれないかしら?」
 美雪さんの言葉には、ただ圧倒されるばかりだった。
 『縛られてる』とか、『解放する』とか。そんな観点でアオイを見たことなんて、あたしは一度も無かった。
 無かったけれど……。
 確かに的外れな言い分だとは思ったけど、あたしは思わず奥歯を噛み締めていた。 
 ――そういう一面がまったく無いと、本当に言い切れるだろうか?
 ――アオイが家族のために、自分を少しも犠牲にしていないと、迷わず断定できるだろうか……?
 (よりによってこのあたしが、そんなこと……)
 心の中で自分に問いかけながら、膝の上でスカートの布地を握り締めていた。
 結局あたしには、美雪さんの言葉を真っ向から否定する自信はなかった。
 でも、アオイは違った。

「――いい加減にしろよ!」

 ロビー全体に響き渡ったアオイの怒声。 
 それは、あたしが二度目に聞いた、アオイの本気の怒鳴り声。
 今回は、この間のものよりもずっと激しい怒りに満ちていた。 
 一瞬シンと静まりかえったホテルのロビーで、他の客や従業員の目が、一斉にあたしたちの方へ集中する。
 だけどそのときのあたしは、そんなものを気にしている余裕も無かった。
 激昂したアオイももちろん、人目になんか意識が届いていない。彼の喉からは、冷たい憤りを滲ませた声が出た。
「それ以上余計なこと言うな。ナツやナツの母さんのこと、それ以上言いやがったら許さねえ」
 アオイの手は引っつかんだテーブルクロスをギリギリと握りつぶす。
 鋭利な刃物のように尖った瞳の矛先は、目の前の美雪さんに一点集中していた。
「勝手に、勝手に出て行ったくせに、自分で家庭を壊したくせに……。今までなんの音沙汰も無しに好き勝手 やってたくせに、今更白々しく母親面なんかすんじゃねぇよ!」
「…………」
 美雪さんはこめかみをぴくぴく震わせながら、葵の怒気に圧倒されていた。
 初めてみるアオイの姿に、あたしも言葉を失う。
 張り詰めたような沈黙がしばらく続き、それからアオイは、ようやく冷静さを取り戻して腰を下ろした。
 だけど、それだけでは終わらなかった。美雪さんにはまだ、とんでもない切り札があったのだ。
 一転、落ち着きを取り戻した口調で、彼女はまた爆弾を落とす。

「……果歩が聞いたら、どんなに悲しむかしらね」

 ――『果歩』。
 ふいに飛び出したその名前に、アオイが息を飲むのがわかった。
 あたしは動揺の広がるアオイの横顔を見る。
 美雪さんは軽やかな口調で続けた。
「ねえ葵。あなた、果歩が可愛くないの? ……そんなはずないわよね。だって果歩は奈津さんと違って、本当に血の繋がった正真正銘のあなたの妹なんだから」
 さらりと繰り出されたそれは、胸に突き刺さるような発言だった。
 (――果歩?)
 (――妹……?)
 血の繋がった、アオイの本当の妹……。美雪さんは確かにそう言った。
 言葉を失っているあたしに彼女は説明した。
「私と今の主人との間にできた娘よ。今年十一歳になるの。葵も何度か会ってるわ」
「…………」
「葵、会ってみてわかったでしょ? 血の繋がった本物の兄妹がどんなものか。あの子はあなたを必要としてる。あなたと一緒に暮らせる日が来るって信じてるのよ」
 アオイのさきほどの剣幕は、完全に失われていた。
 『果歩』という存在が、アオイに与える影響力の強さに、あたしは胸の痛みを覚える。
 アオイに妹が、あたしと違う”本物の妹”が、この世に存在するなんて……。なぜかあたしは考えたことさえ無かった。
 アオイにとって、家族になるべき人間は他にもいる。
 正真正銘、血の繋がったお母さんと、妹さん。
 彼が受け入れさえすれば、美雪さんや”果歩さん”が、彼の本当の家族になるのだ。
 ――そして、あたしたちの家からアオイはいなくなる……。
 次から次へと襲いくる衝撃の中で、この事実が一番痛かった。
 まさかこんな、日常を揺るがような大地震が起きているなんて、あたしは全然知らなかった。
 恋だとか、微妙な感情だとか、そんな悩みまで吹き飛んでしまうほど、痛烈に打ちのめされていた。


 ――だけど……。
 だけどあたしは、横に座るアオイに目を向ける。
 (そういう、ことだったんだ……)
 あたしはようやく理解した。
 アオイは、このことをずっとあたしに隠して悩んでいたのだろう。あたしが子供っぽい嫉妬心で意地を張ってる間も ずっと、一方で受験を背負いながら、もう一方でこの難解な状況に苦悩していた。
 あたしたち家族には、何も話せないまま……。
 アオイが今の家族を、どれだけ必死に守ろうとしてきたか、あたしは知っている。何がアオイをそうさせていたのかも、なんとなくわかる。
 黙り込んでしまったアオイの苦い表情を見ていると、苦しい思いが痛いほど伝わってきた。
 ――辛いのは、あたしだけじゃない。 
 (今、一番辛いのは……)
 そう思うと、打ちひしがれてばかりはいられなかった。 ショックを受けて沈んでいる場合ではないような気がした。
 (しっかりしなくちゃいけない)
 (アオイが苦しんでいるのなら、あたしが……)
 心にこみ上げてくる、恐れや不安を、強引に押し込めた。どうしても溢れ出そうとする、とても利己的な願望も一緒に。
 なけなしの勇気を拾い集めて、あたしは美雪さんに向き直った。
「あの、少しいいですか」
 美雪さんは、若干驚いた表情であたしを見た。
「さっきの、お話ですけど……」
 深呼吸をして、心を落ち着かせる。
 無表情でこちらの言葉を待っている相手の顔を、まっすぐに見た。
「あたしとお母さんが、アオイとお父さんにたくさんお世話になってきたっていうこと、それはよくわかってるつもりです。迷惑をかけたことも……。今だって、感謝しきれないくらい助けてもらってます。特にあたしは……」
 ――冷静に、冷静に。そう言い聞かせながら、震えそうになる喉にぐっと力をこめる。
 そうしないと、泣いてしまいそうだったから。
「あたしは、昔からアオイがいないと何もできなくて、ほんとダメな子で、いっつもアオイの足を引っ張ってました。アオイには一方的に貰うばかりで、まだ何も返したことさえない」
 奥の方から、言葉とは違う何かが込み上げそうになるのを必死でこらえていた。
「ただのお荷物だってこと、嫌になるくらい自分でわかってます。いい加減、自立しなくちゃって……」
 真横から視線を感じていた。アオイが、面食らったようにこっちを見ているのがわかる。
 あたしは力を振り絞った。
「だけど、あたしにとってはかけがえのない『家族』なんです。アオイも、お父さんも、お母さんも、 あたしは何より大切でたまらない……」
 大切な、大切な、かけがえのないもの。
 すぐそばの足元で、砂に埋もれてしまっていたのかもしれない。
 いつしか見失いかけていた”それ”は、失おうとして初めて、ようやくあたしの目にはっきりと映る。
 その瞬間、心の中であたしは訴えていた。

 ――壊さないで。
 ――あたしの、”家族”を壊さないで……。

「アオイがもし、そちらのお家に行くことを決めるなら、あたしはアオイの決断を尊重します。余計な口は挟みません。アオイが自分で決めたことなら。……でも」
 そこで勢いよく頭を下げた。
 瞬間、涙が膝の上に落ちるのを隠すことができなかった。
「でもお願いです! あたしたち家族のこと、否定するような言い方だけはしないでください!」
 あたしは必死だった。
 目に見えない何かを守ろうと、必死になっていた。
「あたしたち、誰が何と言おうと、血の繋がりがなくても、ちゃんと家族なんです。お互いにお互いのことが 大切で、一緒に歩いてきたんです。その気持ちだけは作り物なんかじゃありません」
 ”家族ごっこ”なんかじゃない。
 決して表面的な絆とは違う。
 皆で過ごした温かい時間も、感じあった心の声も、あたしたちが共有する特別な繋がりの証なのだ。
「……だから、それだけは否定しないで下さい。お願い、します……」


 あたしはしばらく、顔をあげることができなかった。
「ナツ……」
 アオイが呆然とあたしの名前を呟いたきり、その場には誰の言葉もなかった。
 膝の上で握り締めた手の甲に、水滴がいくつも落ちていた。今顔を上げれば、 みっともない泣き顔を晒すことになるだろう。
 あたしは涙をぬぐい、そのまま立ち上がった。そしてもう一度深く頭を下げる。
「勝手なこと言ってごめんなさい。あたし、もう失礼します!」
 言うが早いか、その場を離れて走り出していた。
 涙と鼻水が流れそうになるけど、必死に抑えこんで走った。
 
 ――――ドンッ!!

 入口付近で誰かにぶつかって、その相手の顔に、あたしは一瞬目を瞠る。
「……広川?」
 ボーイの制服を着てそこに立っていたのは、なんと川瀬くんだった。
 髪が黒くなっていることもあり、随分印象が違って見えるが、間違いはない。
 とはいえその時のあたしは川瀬くんどころではなく、その場から立ち去ることに必死だった。
 驚き顔の川瀬くんの横を通り抜けて、そのまま外に走った。
 ――神様は残酷だ。
 自分の吐いた言葉とは裏腹に、あたしは否定できない現実に相当打ちのめされていた。
 ――血の繋がらない家族……。
 ただそれだけの事実が、こんなにも心もとない気分にさせる。
 ”特別な絆”さえ、誰かの意思一つで簡単に崩れてしまう、そんな危うさに今更気付かされたのだ。





Copyright(c) 2008 sayumi All rights reserved.