ナ ツ ア オ イ

壊さないで 4



 ホテルから飛び出したあたしは、蝉の鳴き声に溢れかえる木立の間を、トボトボと歩いた。
 ちょうどホテルの裏側にある市民公園。
 広大な敷地の中には市民プールや巨大な時計塔、それに植物園もある。
 中央にある芝生の大広場では、犬を連れてブーメランを投げたり、ボール遊びをしている子供達の姿が見られた。 この暑さの中、元気に走り回っている。
 (昔はよく、日曜に皆でピクニックに来たっけ)
 お父さんの車で、お弁当を持って、みんなで遊びに来た。
 ごく当たり前の家族の姿だった。血の繋がりが無いとか、あの頃はそんなこと何の問題にもならないくらい、 あたしたちは自然に家族でいられた。
 でもそれは、当然にそうなったわけじゃない。
 血縁という”保証”のないあたしたちは、いつもどこかで意識して、家族というものにこだわっていた。
 そして必死に守ろうとしていた。
 壊れないように……。
 誰よりその役割に貢献していたのがアオイだ。
 両親の離婚という、家庭の崩壊を目の当たりにしてきたアオイには、家族というものに対して格別の執着があった。
 彼は今度こそ、壊したくなかったのだろう。
 あたしはそれを知っていた。知っていたのだ。
 それなのに……。
 自分の気持ちに振り回される中で、忘れかけていた。
 何より大切なその事実を思い出し、同時にあたしは、自分が決して捨てられないものの存在を思い知ってしまった。
 もう、遅いのかもしれないけれど……。 


 ――ジャリッ。

 土を踏むスニーカーの音。
 顔をあげると、その先にアオイが立っていた。
 息があがっている。あたしを探して走ってきたのだろうか。
 (どうして……)
 あたしは驚いていた。
 彼が自分を追ってくるという予測はあったけれど、まさかあっさりこの居場所を知られるとは思わなかった。
 最近はめっきり立ち寄らなくなったこの公園に、だからこそ逃げ込んできたというのに……。
「な、なんで、ここがわかったの?」
 呼吸を整え、あたしの唖然とした顔を嘲笑うかのように、アオイは目を細めた。
「バーカ。昔から、迷子のおまえを見つけるのは俺の得意技」
「……なによそれ」
 あたしは、なんとか笑おうとした。
 アオイに今、泣き顔を見せたくなかった。強烈なショックを受けたことを、あまり悟らせたくなかった。
 こうなった以上はもう、アオイの重荷になってはいけないから。
 彼が、自分の意思で自分の道を決められるように……。


 午後の陽射しが和らぎ、空は少しずつ夕焼けの赤みを帯びてきた。
 西から差す光が、木立の中に細長い影をたくさんつくっている。
 蝉の鳴き声があちこちで響く中、網を持った小学生くらいの男の子たちが少し離れたところで騒いでいた。
「……ごめんな」
 ちょうど日陰になってるベンチに腰掛けて、開口一番アオイは言った。
「俺、もっとちゃんとケジメつけてから、ナツや父さんたちに報告するつもりだったんだけど。こんな形で、おかしなことになっちまって……」 
「アオイが謝ることじゃないよ。勝手に乱入しちゃったのはあたしなんだし。 あたしこそ、何も知らなくて、ずっと子供みたいに意地張ってて、……ごめん」
 アオイが買ってきたジュースのカップを膝に乗せて、あたしはずっと地面を見ていた。
 顔をあげてアオイを見てしまうと、泣かずにいる自信がなかった。
 (しっかりしなくちゃ、いけないのに……)
「あたしね、てっきりアオイは東京の大学行くことを隠してるんだって思って、それで、 なんか妙に悲しくて」
「大学……。そっちはまた別問題なんだよ。実は今でもまだ悩んでて、決心してからちゃんと話すつもりだった。 結論を出すにはもう少し時間かかると思う。――でもナツ、さっきの話は……」
 アオイが体をこちらに向けるがわかった。顔を伏せたままのあたしに向かって。
「さっきの、俺の……母親が言ってた話は、本当にはっきり断ったんだ」
 ――『断った』。
 ホッととするはずのその言葉が、なぜだか胸を締め付けた。
 アオイは、美雪さんの前でも同じことを言っていたけれど……。
 それはアオイの本当の本心なのだろうか。
 元を辿れば、お父さんたちの再婚はアオイの意志とは関係のない出来事だったはずだ。 たとえその後にできた新しい家族が、彼にとって守るべき大切なものになったのだとしても……。
 美雪さんの言ったように、アオイは義務感や責任感で、今の家族に縛られてたりする部分も、無いとはいえないんじゃないだろうか。
 本当のお母さんや妹さんと一緒に暮らしたいって、そういう気持ちも少しくらいはあるんじゃないのかな……。
 だってその人達は、本来ならアオイの”本物の”家族になる人たちだ。
 ”本物の”家族と家庭なら、少なくとも血縁の欠如を穴埋めするような、 そんな気苦労からは解放されるに違いない。
「……なあ、ナツ」
 煮え切らないあたしの思考に追い討ちをかけるように、アオイは言った。
「さっき言ってたこと、あれって本気か?」
「え……」
「俺があっちに行っても、……倉元さんの養子になっても、構わないって。俺が自分で決めたことなら尊重するって、そう言ってくれたよな」
 アオイは真剣な顔であたしの返答を待っていた。
 (もしかして……)
 ズキンと胸に響く痛みを感じた。
 (もしかして、アオイは迷っているの?)
 (やっぱりアオイは……)
 嫌な可能性が、現実味を帯びてくるような気がした。
 あたしは恐くなり、アオイの視線から逃れるように、再度前を向く。
「……本気だよ。あたしは……」
 そう言いながらも、膝の上の紙コップを握りしめる手が震えていた。
「アオイがそうしたいなら、自分の意思でそうするのなら、構わない。アオイが幸せになれるなら……、あたしは我慢するよ。――でも……」
 黙ってあたしの言葉を待つアオイ。
 あたしは今度こそ視界が潤むのを止められなかった。
 ――重荷になっちゃいけない。
 ――アオイの選択の邪魔をしちゃいけない。
 そう言い聞かせていたはずなのに……。
 (やっぱり、そんなの耐えられない――)
 喉の奥から漏れ出す、情けない本音と、捨てきれない願い。どうしても抑えこむことができなかった。
「でも、ほんとは、……すごく辛い、よ」
 震える声と同時に、大粒の涙がこぼれた。
「アオイがいなくなっちゃうって思うと、恐くて、すごく恐くて……」
 (あたしってば、なんて情けないんだろう)
 美雪さんの前ではあんな殊勝なことを言っておいて、この有り様だ。 いざアオイがあの家から永久に去ってしまうことを考えると、笑顔で同意することなんてとてもできない。

「……行かないで」

 あたしの口から飛び出した、感情のままの一声。
 アオイの目が大きく開く。
「お願い、行かないで。アオイは、あたしの、あたしたちの、大切な家族、だから……」
 ――大切な家族。
 それが、追いつめられたあたしの選択だった。
 どうしても捨てられない願いと、守りたいモノ。 

 ――神様、あたしはとてもワガママな子でした。

 あたしはアオイに特別な感情を抱き、千鶴ちゃんに取られてしまうのが嫌だった。
 でも、兄として、家族として、彼を必要としていたことも変わらない。
 現に、本当の妹だという子に、”お兄ちゃん”が取られるのが嫌だと思った。 果歩という子の話を聞いたとき、あたしはとっさに身勝手な嫉妬を感じたのだ。
 だけど、それだけじゃない。
 アオイがいなくなるかもしれないと思うと、ものすごく恐くなった。
 家族の形が変わってしまう……。
 あたしたち家族の絆を、一番最初に固めてくれたのはアオイなのに。あたしたちはアオイを失って、それでも”家族のかたち”を維持していけるのだろうか。
 考えたことも無かった不安感に襲われた。 
 単に東京の大学に進学してしまうのとは、事情が違う。ただ離れて暮らすのとは大きく意味が異なる。
 家族でなくなってしまうということ。それは根本的に、とてつもないものが崩壊する、そんな恐怖……。 
 それだけは、どうしても耐えられない。

 ――神様、願いを一つに絞れというのなら。

 あたしはもう欲張りません。
 この特別な気持ちは封印して、ずっと妹のまま、どんなに辛くても我慢します。 
 アオイの幸せを祝福します。
 アオイの結婚式にだって、笑って出席してみせます。
 だからどうか……。

 ――あたしの家族を、壊さないで……。


 アオイの大きな手が伸びてくる。
 それはほんの一瞬逡巡するように彷徨ったあと、あたしの頭の上に乗せられた。
 少し乱暴に、髪をかき回すように、撫でられる。
「……どこにも行かない」
 頭のすぐそばから聞こえる、静かな声。
 子供をあやすような響きで耳に届いた。
 あたしは堰を切った涙をすぐには止められず、しゃくりをあげたままで。
 アオイの言葉に、まるでこの世の唯一の光を取り戻したかのように胸を熱くさせる。
 歓喜と、安堵と、感謝の気持ちが、あたしの心に溢れていた。
「ナツが望むなら俺は行かない。約束するよ。俺にとっても、ナツは大事な……」
 顔をあげたあたしの潤んだ視界に、切なくも優しい顔があった。
「大事な、――家族だから」
 ゆるやかな風が吹いて、木々の葉擦れの音がする。
 アオイの顔に落ちていた木漏れ日の影も、静かに揺れていた。





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