ナ ツ ア オ イ
壊さないで 5
あれからあたしたちは、一緒に家まで帰った。
なかなか泣き止まないあたしの手を引いて、アオイはほとんど何も話さなかったけど、久々に繋いだ手の温もりは昔と同じだった。
週明けからは、本格的に新学期の授業が始まった。
休み明けのたるんだ体にフルタイムの学業生活はキツイ。
うだるような残暑のせいもあってか、帰る時間になるとすっかり体力を使い果たしていた。
「……春香、今日も来なかったね」
放課後、空席のままの春香の机を見ながら、唯が重々しく嘆息する。
「うん……」
始業式から3日、春香は一度も登校していなかった。
夏休み中に春香の家を訪ねた日以来、あたしも唯も彼女とは会ってない。何度も電話をかけようとは思ったけど、正直何を話していいのかわからなかった。
あれこれ考えた末に、春香が自分から話してくれる気になるまで、あたしたちは何も追及しないと決めたのだ。
休み中に川瀬くんと偶然会ったときのことを、唯にも話した。
その時の会話内容を伝えると、唯はますます責任を感じたようで、シュンとなってしまった。
唯が春香のことを思って行動したことはあたしが一番よくわかっている。だから、唯の気落ちした顔を見るのも辛かった。
で、その川瀬くんは、どうやらことのころ真面目に登校しているらしい。
今朝、下足場で遭遇したのだ。
「おはよう」と声をかけても、相変わらず「おお」と短い返事を返すだけで。何事もなかったように、彼はいつも通りの無愛想な態度だった。
この間はあのホテルで何をしてたのか、つい聞きそうになるのを堪えた。
彼は多分バイトか何かだったんだろうけど、何をしてたのかっていうなら、あたしのほうがよっぽど訳アリだ。
自分が追及されたくないのに、相手に質問を投げかけるわけにはいかない。だからやめておいた。
「そういえば、なんか雰囲気変わったよね。あいつ」
唯が思い出したように言う。
『あいつ』とはもちろん川瀬くんのことで、『雰囲気』とは主に髪の色のことを言ってるんだろう。
派手な金茶色だった川瀬くんの髪は、今では見事に真っ黒だった。
ピアスは相変わらずだけど……。確かに以前と比べて雰囲気はだいぶ変わった。
ホテルでぶつかった時も、一瞬誰だかわからなかったくらいだ。
春香のことが、関係しているのだろうか……。
「明日も来なかったら、もう一回、春香の家行ってみる?」
「……うん」
あたしの提案に、唯も頷いた。
余計な追及はしないけど、春香には伝えておきたいことがあった。
――川瀬くんの一途な気持ち。
今更あたしなんかが言わなくても、春香が一番わかってることかもしれない。
だけどあたしは、あたしの目から見た川瀬くんのことをちゃんと伝えておきたかった。
掃除当番の唯と別れて帰路に着く。
校舎を出て深緑の桜並木の道を歩いていくと、校門前に立っている思いがけない人物の姿を見た。
清楚な白いセーラー服。私立校特有の高そうな指定カバン。
綺麗な長い髪の女の子は、通り過ぎる男子生徒の注目を浴びて落ち着かなさそうにしていた。
「千鶴ちゃん?」
あたしに気付くと、その女の子、千鶴ちゃんは少しホっとしたような顔になり、それから遠慮がちにこちらに手を振った。
どことなく気まずさが感じられる雰囲気。
……当然だ。
あたしは、千鶴ちゃんにひどい言い方して別れたままだった。
彼女に近付いていき、あたしはできるだけ自然に声を出すよう心がけた。
「ア、アオイを待ってるの? もうすぐ来るんじゃないかな。さっきアオイのクラスの人、下足場で見かけたし……」
あたしは、あからさまに感じた胸の痛みに蓋(ふた)をする。
もう、そういう感情は忘れなくちゃいけないのだ……。
でも千鶴ちゃんは意外なことを言った。
「違うの。今日は、ナっちゃんに会いたくて来たの。その……、少し、話したくて」
「え……」
あたしは目をパチパチさせて千鶴ちゃんを見る。
千鶴ちゃんは申し訳なさそうに言った。
「時間、少しだけでいいから、とってもらえるかな?」
駅前まで二人で歩いていって、ファミレスに入った。
沈黙が気まずかったので、あたしたちは何気ない世間話をしながら歩いた。
「千鶴ちゃん、わざわざ早退してきたの? 一言メールくれたら、あたし駅まで行ったのに」
「その……、ナっちゃんがもし、あたしのこと怒ってたりしたら、会ってくれないかなって、思って……」
千鶴ちゃんの言葉はなんだか、一つ一つがあたしの反応をうかがうかのように、気兼ねするような遠慮に満ちていた。
あたしは夏休み前に自分が取った態度を思い出して、改めて深く反省した。あれはどう考えても完全な八つ当たりだった。
ちゃんと謝らないとって思っていたから、こうして会えてちょうどよかったかもしれない。
ファミレスのテーブル席で、何かを思案するように俯いたままの千鶴ちゃんに、あたしは自分から話を切り出した。
「千鶴ちゃん、あの、……ごめん、ね」
「えっ」
あたしの言葉が意外だったのか、千鶴ちゃんはすごく驚いて顔をあげた。
ウェイトレスのお姉さんがトロピカルジュースを運んでくるのと同時だった。
そのウェイトレスさんが去っていくのを待ってから、あたしは続ける。
「あたし、千鶴ちゃんにひどいこと言ったね。頭に血が上ってたとはいえ、あんな子供みたいな八つ当たりして、ほんとにごめん」
あたしがテーブルの上に頭を下げると、千鶴ちゃんは慌て出した。
「そ、そんなっ。顔あげてよナっちゃん」
両手を挙げ、オロオロして慌てている千鶴ちゃんは、やっぱりなんだか可愛い。
(……あーあ)
(これはアオイでなくても、男の子なら皆キュンってなるよね……)
老人が世を儚むような遠い目をしてしみじみ納得していると、意外な言葉が聞こえてきた。
「ナっちゃんが謝ることないの。無神経なのはあたしだったんだし。ほんとに、今日はあたしが謝ろうと思って来たんだから……」
一気に現世に舞い戻り、あたしは千鶴ちゃんをマジマジとみた。
「なんで千鶴ちゃんが謝るの?」
「あたし、アオイくんとナッちゃんの問題に勝手に首突っ込んで、なんか偉そうなこと言っちゃって。
ずっと反省してたの。ほんとに、ごめんなさい」
本当に申し訳なさそうに謝る千鶴ちゃん。
あたしはその様子を見ながら、また胸が痛むのを感じた。
(そうだった)
(千鶴ちゃんは、知ってたんだ……)
あの時あたしを追いかけてきて、『そっとしておいてあげて』と言ったとき、
千鶴ちゃんの言葉は”アオイのお母さんの件”のことを指していたのだ。
あたしがアオイの”隠し事”について糾弾したとき、二人して顔を強張らせていたのも、
あたしがその件を知ってしまったと思ったせいなのだろう。
一人ズレたことを考えていたのはあたしだけで。
大学云々の問題で拗ねている間も、千鶴ちゃんはちゃんとアオイの相談相手になっていたのだ。
今になって思い返すと、なんともいえない悔しさで胸が苦しくなる。
それでも、なんとか気を強く持とうとした。
もう決めたことだ。
――アオイは、あたしの”お兄ちゃん”。
あたしは妹として、それ以上の感情は、忘れなくちゃいけない。
自分に言い聞かせて、無理矢理笑顔をつくった。
「千鶴ちゃんが謝る必要なんてこれっぽっちもないよ。ショックだったけど、色々ショックだったけど、
もう大丈夫だから。大学も……、アオイが東京に行くって決めたなら、協力するつもりだし」
「ナっちゃん……」
「だから千鶴ちゃんとのことだって、あたし、ちゃんと……二人のこと応援するから」
一生懸命笑ったつもりだったけど、あたしはまだ未熟だった。
涙はなんとかこらえたけど、言葉の末尾がほんの少し、震えてしまった。
そんなあたしを、千鶴ちゃんはしばらく大きな目でじっと見つめていた。
それから、フっと柔らかい笑みを浮かべた。
「馬鹿だなぁ、ナっちゃん……」
千鶴ちゃんのその時の笑顔には、なんともいえない悲しげな色が滲み出ていた。
千鶴ちゃんとアオイは、あたしが考えていたような関係ではなかった。
二人の間に友情以外のものは何も無いのだと、千鶴ちゃんははっきり言った。
「あたしはただ、成り行きでアオイくんの相談に乗ってただけ。春くらいだったかなぁ。偶然アオイくんとアオイくんのお母さんが一緒にいるところに出くわして、なんていうか、流れで事情を知ってしまったわけ」
何も無いとは言ったけど、それを話す千鶴ちゃんの顔はとても辛そうで。
少なくとも千鶴ちゃんの側には特別な想いがあったということを、明白に物語っている。
だけどキッパリと、彼女は言った。
「あたし、アオイくんには中学の時、フラれちゃってるのよ」
「…………」
それを聞いたあたしはあからさまに驚いたあと、複雑な気持ちになった。
あたしの知らない、アオイと千鶴ちゃんの物語――。
千鶴ちゃんは少し無理したように笑いながら、その一端をあたしに話し聞かせてくれる。
「はっきりフラれたわけだけど、でもずっと、忘れられなくて……。告白した後も、
アオイくんはあえて友達として自然に仲良くしてくれたから、忘れるどころか、どんどん好きになっちゃった」
「千鶴ちゃん……」
「アオイくんも東京への進学を考えてるって知って、調子に乗って一緒に資料集めしたりキャンパスの見学に誘ったり……。
諦め悪いよね?」
伏せられた瞳が、感情の波に揺れていた。
(きっと今でも、吹っ切れたわけじゃないんだ……)
伝わってくる切ない想いが、直接胸に突き刺さるような気がした。
とても他人事とは思えなかった。
「それにね、アオイくん2年のとき、他に付き合ってる子がいたんだよ」
「えっ……」
これには心底ビックリした。
思わず声をあげてしまう。
「確かバスケ部の親善試合かなんかで、県外の高校行ったときに知り合ったって。相手校のマネージャーだったって聞いてるけど。けっこう長いこと続いてた。……いつのまにか別れてたんだけどね」
「……そう、なんだ」
全然知らなかった。
アオイってばそんな素振り、微塵も見せなかったから。
彼女ができたら、男の子ならもっとこう、恋愛優先で家族は後回しとか、
そういう変化が表れるものなんじゃないの?
そこまで考えて、あたしはすぐに自分の思考の誤りに気付いた。
――アオイのことだ。
あのアオイが家族を後回しになんて、するはずがなかった。
「正直言うとね、下心はあったんだ」
やや自嘲的な笑みを浮かべて話す千鶴ちゃん。
「アオイくんが誰にも話せない悩みで苦しんでるの、心のどこかでチャンスだと思ってた。相談に乗って、力になって、そしたらアオイくんが振り向いてくれるかも、って……、ほんと自分があさましくて嫌になるけど……」
大きな黒い瞳は潤み、濡れたような睫毛が少し震えていた。
「でも、アオイくん、それどころじゃなかったんだよ」
千鶴ちゃんは大きく息を吐いて、それから何かを吹っ切るように顔をあげた。
「アオイくん、必死だったから。今回の件、ナっちゃんやおばさんたちに、嫌な思いさせないようにって、とにかく家庭内に余計な波風立てないようにって、そのことで頭が一杯だったみたい」
(――アオイ……)
あたしの頭に、アオイの顔が浮かんだ。
同時に、とてつもなく切ないような、苦しいような感情が込み上げてくる。
――あたしは、彼の何を見ていたんだろう。
誰よりもアオイのことが大好きで、誰よりも近くで見てるつもりだった。
それなのに、あたしは……。
「……ねえ、ナっちゃん」
しばらくの沈黙をおいて、千鶴ちゃんは口を開く。
ほとんど口をつけていないままのトロピカルジュースは、氷が溶けて上のほうの色が薄くなっていた。
千鶴ちゃんの顔はいつもの柔らかい笑みを浮かべていたけれど、あたしに向けられる目がとても真剣だった。
「アオイくんはね、子供の頃からずっと、大切なものを守るために必死だったんだと思うの。
自分を犠牲にしたとしても……、ナっちゃんたちとの温かい家庭を、絶対に壊したくなかったんだよ」
「…………」
「ごめんね。あたしがこんなこと言うの、図々しいってわかってるんだけど、でも……。
アオイくんの可愛そうなくらい一生懸命な思い、ナっちゃんにも、わかってもらいたくて……」
あたしは視線を下に落とし、テーブルの上を見ていた。
グラスについた水滴が、一滴また一滴と流れ落ちて、コースターの上に染み込んでいく。
磨き上げられた艶やかなウッドテーブルに、あたしの腫れぼったい顔が映っていた。
(――ほんと、馬鹿だな、あたし)
千鶴ちゃんにはちゃんと見えていたのに。
あたしは本質的に、何もわかっていなかったのだ。
アオイのことを好きだといいながら、あたしはどこかで相手を思いやる気持ちに欠けていた。自分の気持ちに手一杯で、肝心なものを見落として。
(そんなんじゃ、家族としても失格だ)
もっとちゃんと、大事な人の心の痛みを理解できる人間になりたい。
これからは、あたしも……。
「――うん」
あたしは強く決意した。
「ありがとう、千鶴ちゃん」
アオイが守ってきたものを、これからはあたしも守らなくちゃいけない。
絶対に壊しちゃいけない……。
今までアオイに貰った沢山のものを返すには、あたしはそうするしかないのだ。
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