ナ ツ ア オ イ
わかれ道 1
町の秋景色の、寂しくも懐かしい情緒は今も昔も変わらない。
穏やかな空の色と、沿道に咲いたコスモスの花。その可憐なコントラストはフワリと心を和ませてくれる。
稲刈りを終えた田んぼでは、何列も並んだ稲架(はざ)に、太い稲穂の束がいくつも干されていた。
山江川の河川敷には、毛糸のような穂をつけたススキが一面に広がっている。
子供の頃、いつも埋もれるように駆け回っていた金の海原が、今年も変わらず緩やかな風の波に凪いでいた。
ちょうど二度目の進路相談を終えた日。
あたしは学校の帰りに、その河川敷の周辺をブラついていた。
夏の終わりとともに変わり始めた周囲の空気に、少なからず焦りのようなものを感じていた。
唯も春香も、いつの間にかそれなりに進路の方向性を固めていたらしく、
それを聞くといっそう焦燥感は色濃くなった。
三年次からの文系理系のコース選択さえ決めかねているあたしは、
一人置いてけぼりをくったかのような気分を味わっていたのだ。
焦る必要は無いのだと、担任の菅谷先生は言ってくれた。
なんだかんだで、三年生になるまでにはまだ時間がある。
それまでに決めればいいことではあるけれど……。
そんな僅かな時間に、自分が将来やりたいことなんて見つけられるのだろうか。
一生携わっていくかもしれないことなんて、見極められるものだろうか。
どうして皆そんなにあっさり、進む道の方向を見定めることができるのだろう。
あたしは、大卒という称号を得るためだけにただ漠然と大学に進学するのは嫌だった。
大学へ行くなら更にその先を見据えたうえで、学校なり学部なりを決めたいと思うのだ。
もしかすると、夢に一直線なアオイに、多少なりとも感化されていたのかもしれない。
悠長なことだと呆れられるかもしれないけれど、あたしはどうしても妥協する気分にはなれず、
だからこんな風に追いつめられたような気持ちになってしまう。
つくづく面倒くさい性格だということを、ここにきて思い知らされていた。
ネコジャラシで猫と遊んだりしながら気晴らしをして、日が落ちる前に帰宅した。
玄関扉をくぐるなり、あたしの鼻がピクリと動く。
そしてリビングの扉を開けるなり、漂う香ばしい香りに”すきっ腹”が反応した。
「秋刀魚(さんま)だ! お母さん、今日は秋刀魚なの? ねえ!」
「そうよ。……もう、落ち着きなさいって」
魚大好きなあたしはギラギラと目を輝かせていた。
「やったーッ」
大きくバンザイをしながら、一人でグルングルン回転する。
お母さんは苦笑しながら、魚焼きグリルに乗った秋刀魚を器用にひっくり返した。
食欲を刺激する匂いを直に吸い込むと、お腹がキュルリと音をたてた。
「う〜ん、いい匂い! お腹すいてきた!」
ソファーに座って新聞を読んでいたお父さんが、陽気に声をたてて笑っている。
「ナツは相変わらず魚が好きなんだなぁ」
彼の頬の筋肉は、いつにも増して緩んでいた。
このところお父さんのご機嫌は絶好調だ。
ご贔屓の球団が優勝へのマジックナンバーを順調に減らしていることが理由らしい。
診療所でも患者さんたちとその話で盛り上がり、家に帰ればアオイを巻き込んで、
連日二人で大騒ぎしているから困ったものだ。
エプロンを付けて、ブラウスの袖を肘上までたくし上げたあたしは、
お母さんの横に並んで夕飯の仕度を手伝い始めた。
「――おっ、始まった始まった!」
ニュースが終わってナイター中継が始まるなり、お父さんはいそいそとテレビに吸い込まれていく。
「ほんと、男の人って……」
ゴリゴリと大根をすりおろしながら、あたしは呆れたように笑っていた。
お母さんは隣で鍋の火加減を調節して、煮物の出汁の味見をしている。
「いいじゃない。何かに夢中になれるって、幸せなことよ」
「そりゃ、そうだけど」
大根をすり終えると、あたしは冷蔵庫からスダチを取り出して半分に切った。
もう一つのメニューである肉じゃがを鉢に盛り付け、
その後でいよいよグリルの中から今日の主役にお出ましいただく。
こんがり焼けた秋刀魚を、陶器のお皿にのせた。それとほぼ同時に、玄関扉の開く音がする。
アオイが帰ってきたのだ。
心なしか軽快な足音が近付いてきて、リビングの扉が勢いよく開いた。
顔を覗かせたアオイは、既に鼻をピクピクと動かしており、
食欲に躍る目がさっきのあたしと同じくらい輝いていた。
「秋刀魚!? 母さん、今日って秋刀魚なのか!?」
広川家ではよく見られる光景だった。
無類の魚好きなあたしは、猫のように綺麗に身を食べる。
秋の味覚に満悦して口をモゴモゴ動かしながら、隣に座ったアオイに目を向けると、
彼はお父さんと一緒にナイター中継に熱中していた。
「ねえアオイ、今日も図書館で勉強してたの?」
テレビから目線を逸らさないまま、アオイは返事を返した。
「おうよ。閉館時間まで粘ってた。もう受付のお姉さんにすっかり顔覚えられちまってるし。
……あ、そうそう、そのお姉さんが、RIHOちゃん似のすげーカワイイ人でさぁー」
「……あっそ」
あたしはお味噌汁をズズっと飲み込み、調子に乗ったアオイの横顔から目をそらした。
昨日の帰り、あたしは偶然立ち寄った図書館の自習コーナーで、カリカリ勉強するアオイの姿を目撃していた。
声はかけずに先に帰ったけど、勉強に没頭している時の、彼のあまりに真剣な表情に驚いた。
もともと勉強なんて進んでするタイプではなかったのに……、
今回ばかりはアオイの必死さがひしひしと伝わってくるようだった。
ついしばらく、書棚の影から見守ってしまったくらいだ。
アオイは夢に向かって、全力で駆け抜ける。その背中はやっぱり、とてもまぶしくて。
あたしはどうしても後を追いたくなってしまうのだけど……、それは許されないことだった。
秋刀魚にパクついていたアオイは、テレビの中のホームランに興奮して立ち上がった。
お父さんがいち早くテレビの前に飛び出し、「よっしゃぁ!」とビールのグラスを片手に声をあげている。
アオイは秋刀魚の尻尾を口からぶら下げたまま駆けつけて、同じくテレビの前でガッツポーズをしていた。
二人して小躍りするようにはしゃいでいる。
「――こら! 二人ともお行儀悪いからやめて!」
あたしが声をあげると同時に番組はCMに入り、二人は叱られた子供のようにスゴスゴと席に戻ってきた。
「……まったくもうっ!」
お母さんは呆れたように笑い、あたしは頬を膨らませて不満をこぼしながらも、この日常的な夕食の時間を楽しんでいた。
食事を終えて、あたしが剥いたリンゴをみんなで食べている時に、それは訪れた。
ナイターも終わり、お父さんもアオイもご機嫌で悦に浸っていた。
あのヒットはどうだったとか、あの盗塁がゲームを決めたとか、
なんだかよくわからないことを二人で熱く論議している。
そんな中、ふいにアオイの携帯からメロディが鳴り響き、着信を知らせた。
お父さんと話を続けながら、何気なく片手で電話のフリップを開くアオイ。
けれどその画面を、おそらくは発信者の名前を確認した瞬間、彼の表情が固まったように見えた。
お父さんとお母さんは二人で別の話を始めていたため、アオイの様子には気付いていなかったようだ。
一瞬躊躇したあと、鳴り続ける携帯を手にしたまま、彼は部屋を出た。
それからすぐに、廊下から何かを話す声が途切れ途切れに聞こえてくる。
あたしはりんごに刺したフォークを握り締めたまま、不穏に高鳴る心臓の音を感じていた。
声が聞こえなくなっても、しばらくアオイは席に戻ってこなかった。
「なんだ、アオイのやつ、もう部屋に戻っちまったのか。自分の食器も片付けないで」
お父さんが勘違いして顔をしかめる。
あたしは何も言えず、感じる不安に、ただじっと座っていた。
しばらくしてから扉が開き、アオイが部屋に入ってくる。
その時の彼の顔を見て、心臓がひと際大きく高鳴るのを、あたしは確かに感じた。
アオイの表情は硬く、――青ざめていた。
お父さんたちでさえ、リンゴに伸ばしかけていた手を止め、そのただならない様子に怪訝な顔をしている。
アオイは何も言わず、やけにのろのろとした動きで自分の席にまで戻り、そして椅子に腰を下ろした。
「……アオイ」
彼の目は放心したかのようにぼんやりと、正面のテーブルに向けられていた。
「なんだ、どうかしたのかアオイ」
「アオイくん……?」
皆が心配して声をかける中、呆然と暗い表情のまま、彼は口を開いた。
「……倉元さんが、俺の母親の旦那が、脳溢血で亡くなった、って……」
その瞬間に肌に感じた空気の震えを、あたしは一生忘れないだろう。
穏やかな水面に石が落とされたように、異質な感覚が波紋となって広がっていく。
つけっぱなしのテレビから、コメディ番組の芸人の声が高らかに響いていたけれど、
沈黙に包まれた食卓は、まるで隔離された空間のように外からの感覚を遮断していた。
その中で、あたしはかろうじて、この間会ったアオイのお母さんのことを思い出していた。
あの美雪さんの旦那さんが、亡くなった――。
それはつまりアオイの妹さんの……、”果歩さんのお父さん”が亡くなったということだ。
「…………」
誰も言葉を発しない特異な静けさの中で、この事実が示唆する未来を、
多分アオイとあたしだけが予感していた。
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