ナ ツ ア オ イ

わかれ道 2



 秋も深まるというこの時期に、日本列島を異例の台風が襲った。
 幸いこの町に大きな被害は出ることなく終わったけど、一時は山江川の堤防決壊が危惧されて、 避難勧告が出るんじゃないかと住民は固唾を飲んでいた。
 大雨で新幹線が止まり、帰りが遅れそうだとアオイから連絡が入ったのは、昼を過ぎてからのことだった。
 テレビでもひっきりになしに電車の運行情報のテロップが流れ、全国での被害状況が映し出されている。
 あたしは居間でお母さんたちと一緒にそれを見ていた。
 既にあたしたちの住む地域から台風は遠ざかり、昼前には大雨や暴風の警報も解除されていたけど、 増水した川の流れが勢いを増し、今日は県内の学校はほぼ休校となっている。
 アオイはまだ雨も激しかった早朝に、家を出た。
 黒い喪服を着たアオイを、お母さんが車で大山手の駅まで送って行った。
 そこにはあたしも同乗してたけど、ほとんど会話はなかった。


 一昨日に訃報の電話が入って以来、あたしたちの家はかつてない重い空気に覆われていた。
 アオイに連絡が入ったことで、お父さんたちに全て知られることになってしまったのだ。
 アオイの実のお母さんである美雪さんが頻繁に大山手市まで訪れてアオイと会っていたこと、 アオイが東京まで行って、妹の果歩さんや亡くなった美雪さんの御主人とも何度か会っていたこと、 そして、あたしまでが美雪さんと会って話をしたこと……。
 美雪さんの旦那さんである倉元さんという人は、もともとお父さんとも仕事関係で面識のある人だったようで、 訃報を伏せておくわけにはいかなかったらしい。
 いずれにしろ、あの食卓でアオイが包み隠さず公表したということは、 彼の中に既に何か思うところがあったからなのだろう。
 お父さんは固い表情のまま黙り込んで何も言わなかった。
 お母さんは、あたしが美雪さんと会ったことに相当ショックを受けたようで、何か嫌な思いをしなかったかと、二人だけのときに聞いてきた。
 あたしは、アオイが一緒だったから大丈夫だった、と軽く答えておいた。
 お母さんに余計な心配をかけるのは嫌だったし、アオイの立場がこれ以上微妙になってしまうのも避けたかったから。
 夕方になってすっかり小雨になった頃、新幹線が出発したと、アオイからメールが届いた。


 単線の市電の駅は、外からホームが丸見えだ。
 霧雨で薄ぼんやりと煙る中、下りの電車が既にホームに到着するところだった。
 あたしは足場の悪い砂利道を早足で横切り、木造の古い駅舎に駆け込んだ。 改札口の前で立ち止まり、降りてくる乗客の波を待つ。
 改札の奥に目を向けたまま、あたしの足は落ち着き無く、 ほぼ無意識に同じ場所を行ったり来たりしていた。
 二両しかない電車の後ろの車両から降りて来る、黒い人影を見つけた。
 ゆっくりとホームを歩き、改札から出てくるまでの、彼の足取りは傍から見ても軽いとは言いがたかった。
 そしてあたしは、その時垣間見てしまった表情に、衝撃にも似た直感が走るのを感じていた。
 一つだけしかない改札口を通って出てきたアオイは、出口付近で佇むあたしの姿に気付くと、 まっすぐ歩いてきた。
「なんだ、わざわざお迎えか。至れり尽せりだな」
 声だけはまったくいつもの調子で、軽口を叩くときと何ら変わらない。
 けれど……、その顔に浮かぶ曖昧な笑みにどこか陰りが見えるのは、 おそらく暗い服の色のせいだけではないのだろう。
「もーちょっとで止みそうなんだけどなぁ」
 建物の屋根の途切れ目から手を伸ばし、どんよりとした雨空を見上げてアオイはぼやく。
「ま、朝よりはマシか」
 脱いだ喪服の背広を脇に挟みながら、彼は二本指で黒いネクタイを緩めた。
 それから傘をさして、駅舎の外に出る。水溜りを器用に避けながらアスファルトの車道にまで出た。
 あたしはアオイの後をただ歩く。 しとしとと降り続く雨の中、傘を並べて無言で歩く。
 ボツリボツリと、落ちてくる水滴が傘にぶつかる音が頭上を覆っていた。
 自主的に迎えにきたはいいけれど、何と話せばいいのかわからなかった。
 あたしはどうしても、家でじっとしていられなかったのだ。
 胸に渦巻く不安な思いが拭えずに、一刻も早くアオイの顔が見たかった。
 アオイの帰りを待ちながら、どうしようもない焦燥感に襲われていた。
 だからお母さんが止めるのも聞かずに家を飛び出して、勝手に迎えに来てしまった。
 でもいざアオイの顔を見ても、不安は膨れるばかりだった。 むしろそれは消えるどころか、ある確信へと変わっていく。
「……ど、どうだったの? お葬式。東京も大雨で大変だったんじゃない?」
 重い空気を断ち切るように問いかけてはみたけれど、気のない声が返ってきた。
「ああ……、まあな。つうか、会場がスゲーでかい寺で、人が大勢来ててさ。俺はそっちにビビったわ。 坊さんとか3人も来てたし」
「そう、なんだ」
 美雪さんの旦那さんは、製薬会社の重役さんで、結構社会的地位のある人だったらしい。
 そういう人のお葬式なら、業界の関係者やら取引先の人間やら、 気の張る相手がわらわらと慰問に訪れるのだろう。
 こんな田舎で行われる身内だけの葬儀とは規模も迫力も桁違いのはずだ。
「ア、アオイのお母さん、大丈夫だった? こんなことになって、だいぶ気落ちして……、いらしたんじゃ……」
 一番聞きたいことは、一番聞き難いことだった。
 間が開いて不自然にならないうちに口にする。 できるだけさりげない口調を装ったけれど、あまりうまくいかなかった。
 おそらく今回の喪主は美雪さんが努めたはずだ。
 あまりに突然御主人を亡くし、悲しむ間もなくお葬式で大任を努めることになり、 アオイの目に彼女の姿はどう映ったのだろう。
 そして、果歩さんは……。
「……まあ、それなりにな」
 アオイの返答は、あまりに短くそっけなかった。
 そしてそれっきり黙りこんでしまった。
 けれど彼の声の奥に滲む複雑な思いを、あたしは確かに感じていた。



 その後は意外にもあっけないものだった。
 翌日からすっかり日常に戻り、あたしたち家族は何事もなかったように日々を過ごしていた。
 お父さんもお母さんも、その話題には触れず、アオイもアオイで再び受験勉強の世界にのめりこんでいる。
 帰ってきた模試の結果に頭を抱えながらも、彼は元気そうに見えた。
 あっという間に月が変わり、気付けば紅葉の季節も終わりかけていた。
 あれ以来、美雪さんと連絡をとっているのかどうか、あたしにはわからない。
 二人になったときも、アオイの口から、大学以外で東京の話題が出ることは一度もなかった。
 表に何も出さないようにしているだけかもしれないし、もしかしたら本当に何も無いのかもしれない。
 あたしにはわからないし、追及することもできなかった。
 とても静かに時間は過ぎ、実力テストの休暇明けには、あたしたちの制服は冬服に変わっていた。
 そして更に、ブレザーの上にコートを羽織る頃になり、嵐は再びやってきたのだ。



 アオイが玄関扉を開けると、その人はくすんだ色のスーツに身を包み、門の前に立っていた。
 以前会った時よりも格段痩せた様子で、表情からも前見た時のような気勢が感じられない。
 アオイの後ろにあたしの姿を見つけ、彼女は静かに頭を下げた。

 昼下がり、リビングの窓からは鈍い色の冬空が見えた。
 遠慮がちに椅子に腰掛け、美雪さんはしばらく何も話さなかった。
 お母さんが紅茶を運んできてテーブルに置くと、軽く頭を下げる。
 美雪さんの前の席にはお父さんが座り、その隣にはアオイがいる。
 あたしとお母さんは、台所付近に立ち、少し距離をとってその様子を見守っていた。
 お父さんは黙りこくったまま、難しい顔をして美雪さんから目をそらしており、 アオイも無言で膝の上の手を組んだり解いたりしていた。
 誰も口をつけない紅茶のカップから湯気が立ち上り、茶葉の匂いがあたりに充満している。
 木枯らしのようなビュオオオという音が、窓の外から聞こえた。
「……答えは変わらん」
 お父さんの低い声が、長い沈黙を破った。
「この間電話でも伝えた通りだ。すべてはアオイ次第、おまえがこうして訪ねてきても、それは変わらん」
 先週、美雪さんから広川家に電話が入ったのだ。
 お父さんと30分くらい話をしていたようだ。
 あたしは詳しい内容は聞かされていないけど、なんとなく想像はついていた。
「それでなくともアオイはもう十八だ。そっちの家に入るかどうか、 当たり前だが俺たちが決めることじゃない」
 お父さんはピシャリと言い捨てる。どことなく怒ったような冷たい声だった。
 お父さんのこんな顔も声も、あたしは初めて知った。
 相手の正当な言い分に加え、美雪さんには何か負い目があったのだろう。 多分、離婚の原因を自分が作ったという、後ろめたさのようなものだと思うけれど……。
 彼女の態度はどことなく受け身で、弱気なようにも見えた。
 だけど、それでも要求だけは諦めきれないらしい。
「私は、あなたの理解がほしかっただけよ。もちろん葵には自分で決断してもらうつもり。ねえ、葵」
 美雪さんはそのままアオイの方を見る。
 表情には心なしか、以前のような余裕が感じられない。
「葵、お願いよ。あなたが必要なの。あなたがいてくれないと、果歩が……。果歩がね……」
 飛び出すのは、アオイの妹さんの名前。そして美雪さんはこらえ切れない様子で涙を溢れさせる。
 なんだか様子がおかしかった。
 アオイは黙って目を伏せたままだけど、あたしは思わず声を出してしまう。
「か、果歩さんが、どうかされたんですか?」
 あたしなんかが口を出していい状況ではないとわかっていたけれど、思わず聞かずにはおれなかった。
 美雪さんはハンカチで目元を押さえながら、あたしの問いの答えてくれた。
「……奈津さんには言ってなかったけど、あの子、病気なのよ。先天性の心臓の病気でね。ずっと入退院を繰り返しているわ」
「…………」
 あたしは驚いた。
 アオイを見ると、彼はひどく苦い表情のまま黙り込んでいる。
 お父さんも果歩さんの存在は知っていたようで、とくに驚いた様子はない。
「あの子、お父さんっ子で、ほんとにあの人が大好きだった。それなのにこんなことになって……、 お葬式以来、ずっと塞ぎこんだまま少しも笑わないのよ。今度の手術を受けるのも嫌がって……」
 ――病気。しかも、心臓病って……。
 美雪さんの取り乱した様子に、あたしは言葉を失った。
 (そんな……)
 あたしがショックで顔色を失っている間に、お父さんが美雪さんに厳しい声をかけた。
「よさないか。そういうやり方はフェアじゃない。同情心を煽って揺さぶるような真似は大人気ないだろう。 アオイには自分で決める権利があるんだ」
「同情って……、私はそんなつもりは……!」
 お父さんの言葉に、憤りを滲ませる美雪さん。
「だいたい10年近くも放っておいて、今になってコソコソとアオイに会って引き取りたいと言い出したり……、 いったいどういうつもりだ。身勝手で周りを振り回すのもいい加減にしろ」
「私は葵の母親よ? 10年ぶりだろうがなんだろうが、実の息子に会いたいと思って何が悪いの!?」
「会うのが悪いとは言ってない。小細工みたいなやり方が気に入らないと言ってるんだよ!」
 張り詰めた空気の中、険悪な口論を始めるお父さんと美雪さん。
 あたしもお母さんも、青ざめた顔でその成り行きを傍から見守るしかない。
 ショックだった。
 こんなふうに生々しい言い合いをするお父さんを、元奥さんだった人に容赦なく怒鳴りつけるお父さんの姿を、 見ているのがとても恐くて辛かった。
 いつも、あんなに優しいお父さんが……。
 なんだか胸が詰まるように苦しくなって、居た堪れなくなる。
「だいたい、葵のことを本当に考えるなら、こんな所に引っ越してくるなんて信じられないわ。……可哀想に、 葵は自分でバイトしながら東京の大学を受験するらしいじゃない」
「……それは、おまえが口出すことじゃないだろう」
「あなたって人はいつもそうだった。思い立ったら即行動で、そういう身勝手さを引き受けてくれる人がよかった んでしょ。だからそちらの奈保子さんと……」
「いい加減にしろ! 子供の前で、非常識にもほどがある!」
 何かに必死になるあまり、方向を見失ってヒステリックになっている美雪さんと、 若干冷静さを失って憤慨するお父さん。
 怒鳴りあいは平行線で、あたしは思わず耳を覆う。
 自分のお父さんとお母さんが喧嘩してるところなんてほとんど見たことがなかったし、 こんな言い合いを初めて目の当たりにしたショックは大きすぎた。
 もしかしてアオイは小さいとき、いつもこんな光景を……。
 そんなことを思ったところで、思いがけない衝突音が空気を割った。

 ――――ドンッッ!!!

 アオイの拳が、テーブルに激しく打ち付けられる。
 テーブルが振動し、響いたその苛烈な打撃音の後、一瞬シンと静まり返った。
「…………」
 美雪さんはやや怯えた顔で言葉を飲み込み、お父さんは我に帰ったように咳払いをして、 椅子に腰掛ける姿勢を改めている。
 二人とも押し黙り、しばらくその場は静寂に包まれた。
 木枯らしで枯葉のぶつかる音が、窓ガラス越しに聞こえていた。
 寒々しい風が、雨戸を震わせている。
 見たことも無い冷たい表情で立ち尽くすアオイを、あたしは息を飲んで見守っていた。
 アオイは激しい怒気を孕んだ低い声を漏らす。
「……もう黙ってくれ」
 言葉は美雪さんに向けられていた。
「帰ってくれ。ここは、あんたのいる場所じゃない。たとえどんな理由があっても、 あんたが踏みにじっていい場所じゃないんだ」
「……葵……」
 美雪さんは、悲壮に引きつった顔を更に強張らせている。
「父さんが言ったように、俺は自分のことは自分で決める。もう少し考える時間だって欲しい。 答えが出たら自分から報告するから、だからもうこの家に余計なちょっかい出すのはやめてくれ」
 苦渋を絞り出すように吐き捨てると、アオイは部屋から出て行った。
 玄関扉が勢いよく開いて、そして閉まる音がする。
 アオイの気配はそのまま外に消えてしまった。




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