ナ ツ ア オ イ

わかれ道 3



 夕暮れ前、寒気を孕んだ風が気温をぐっと押し下げる。
 枯れ木の揺れる音が余計に寒々しくて、あたしは軽く身震いをした。
 目指す坂の上に、ようやくアオイの姿を見つけることができた。
 家を飛び出したアオイを追って、あたしはしばらく家の近くを捜し歩いていたのだ。
 アオイのジャケットを片手に、焦るようにその姿を追い求めていた。
 なんとなく、彼は泣いているんじゃないかと、そんな気がしてじっとしていられなかった。
 丘の上にある小さな公園で、アオイは鉄の柵にもたれるように腰掛けている。
 ダークグレーのセーターを着た背中は、見たこともないほど寂しげで物悲しく、 思わず近付いていって後ろからそっとジャケットを被せた。
 あたしが来たことには既に気付いていたらしく、アオイはさほど驚きはしない。
「……サンキュ」
 短く言って、モソモソとそのフード付ダウンジャケットに腕を通した。
 あたしは途中の自動販売機で買ってきたホットドリンクの缶を、アオイの胸に押し付ける。
 アオイはそれを受け取り、まだ温かい缶を手の平で包み込んだ。
 そして口から白い息を漏らした。
「悪かったな。またナツと母さんには嫌な思いさせちまった」
 黙って横に腰掛けるあたしに、アオイはあくまでいつも通りの口調で話す。
 困ったような苦笑いを浮かべながら、どことなく遠くを見ているようなその瞳。
 あたしは胸がギュっと押し潰されそうになって、彼から目をそらした。
「あたしたちは、大丈夫だよ」
「”あの人”は?」
「帰ったよ。お母さんに何か謝って、それから帰って行った」
「……そっか」
 ヒュウウウと乾いた風が足元を吹き抜ける。
 砂場に忘れられていたおもちゃのスコップが、ブランコのほうに飛ばされていた。
 錆び付いたブランコの鎖が、キイイと寂しげな音をたてている。
 この場所からは、この町の住宅街のほぼ全域が見下ろせた。
 薄暗がりの中、眼下の家々には少しずつ灯りが灯り始めていた。
「ねえアオイ、懐かしくない? 昔よくここで、おもちゃの望遠鏡持ってきて、星の観測やってたよね」
「……ん? ああ、そういや久しぶりだよな」
 中学に入った頃からはめっきり近寄ることもなくなったけど、ここもアオイとの大切な思い出の場所だった。
 丘の上にある公園は、まるで町の上空に浮かんだ島のようだ。
 今二人が腰掛けているこの場所からは、町の景色だけでなく、夜空の星がとてもよく見える。
 星座が好きだったアオイにあれこれ説明を受けながら、よく二人で天体観測をしていた。
 二人だけのプラネタリウムのようだった。
 ただ毎日が楽しくて、無邪気にはしゃいでいた頃の思い出。 今はそれを思い出すと、やるせない思いが広がってくる。
 胸の奥が重たく鈍く痛んで、喉の奥が苦しくなって……。
 赤紫の夕闇に沈んでいく町の姿が、遠い蜃気楼のように見えた。
「……アオイ」
 ポツリと呼びかけたあたしの声に、アオイは黙って顔を傾けた。
 あたしはできるだけ遠くの景色を見つめながら、大きく息を吸う。
 そして、言った。

「――行ってあげなよ。……妹さんの、果歩さんのところに」

 あたしはどうしようもなく予感していた。
 皮肉にも、これまでにないほど、アオイの心がはっきり見えるような気がしていた。
 アオイは妹の果歩さんに対して明確な情を抱いている。
 彼の性格からしてもそれは当然のことで、 血の繋がった唯一の兄妹の苦境を見過ごすことなんてできるはずがなかった。
 強く突っぱねてはいるけれど、美雪さんに対してもそれは同じなんじゃないだろうか。
 あたしは今日、果歩さんが病気だと聞いて確信した。
 彼女がどんな子かも知らないし、どんな形で二人が会っていたのかも全くわからない。
 ただ、ここで選択を誤れば、アオイは一生後悔することになる……。
 それだけははっきりと断言することができた。
 アオイはあたしたち家族のことを何より大切に思っているけれど、彼はきっと気づいてない。 大切に思うあまり、知らずに自分を追いつめる方向へ進みかねない危うさがあることを。
 今ここで思い切った選択をしなければ、後で苦しむことになるのはアオイなのだ。
 あたしは彼がこれ以上辛い思いをするのは嫌だった。
 背負い続けている重荷から、少しでも解放してあげたいと思った。
 迷いや未練があるのなら、その枷(かせ)を軽くするために、 できる限りのことをしたかった。
 だから、限りない苦しさを押し殺して言ったのだ。
 ――『行ってあげなよ』。
 その声に、視界の端でアオイの顔が動くのがわかった。
 あたしは前を向いたまま。アオイの顔を見ることはできない。
 ――なんでだろう。
 このところ、ずっとこうだった。
 アオイの顔を見ていると、色んな気持ちが込み上げてきて、泣きそうになって、居た堪れなくなってしまう。
 もしかすると心の奥に潜み続けていた予感のようなものが、壊れゆく日常に警鐘を鳴らしていたのかもしれない。
 アオイはあたしの言葉に返事を返さなかった。再び眼前の景色に顔を向け、じっと黙り込んでいる。
 あたしもそれ以上は何も言わず、ただ彼の隣に居続けた。
 遠くの空に浮かぶ、ひと際大きな一番星。
 (そういえばあれ、なんていう星だったけ……)
 あたしは昔得意げにアオイが話していた星の名前を、思い出そうと記憶を辿る。 けれど思い浮かぶのは、朗らかに笑ってあたしの手を引いていた、子供の頃のアオイの顔ばかりだった。
 長い時間がすぎて、辺りはすっかり暗くなっていた。
 公園の外灯が足元を照らし、月がくっきりと輪郭を現す頃、アオイはようやく動いた。
 軽く身震いをして立ち上がると、ポケットに両手を突っ込み、仰ぐように空高くを見上げる。
「……ナツ」
 あたしに背中を向けたまま言った。
「今年のイヴ、二人でどっかに行かないか?」





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