ナ ツ ア オ イ

わかれ道 4



 ――『今年のイヴ、二人でどっかに行かないか?』
 
 アオイがどういうつもりでそんなことを言い出したのか、あたしは結局わからないままだった。
 当の本人はまた何事ともなかったかのように、再び受験勉強に精を出している。
 一度だけお父さんと二人で部屋に篭って話し込んでいる日があったけど、 何を話し合っていたのかまではわからない。
 お父さんはあの日の夜、あたしとお母さんに謝った。 アオイと同じように、「嫌な思いをさせて悪かった」と。
 いつも通りの優しくておおらかなお父さんに戻っていたので、あたしは少し安心することができた。
 アオイの受験校は、滑り止めも含めて全て関東圏の大学だ。 だから来年の春から彼がこの家を出て生活するのは、ほぼ確定していた。
 問題は、どういう形で出て行くことになるのか、ということだ。
 ――『行ってあげなよ。……妹さんの、果歩さんのところに』。
 あたしのあの言葉を、アオイはどう受け止めたのだろうか。
 あの時はアオイの心の声があたしにも、はっきりと聞こえるような気がしていたけれど。
 その後再び彼の心は霧に隠れるように見えなくなってしまった。


 それから約半月、アオイは何も話さないまま。
 12月半ばを過ぎると、世間は恒例のクリスマスムードに浮かれていく。
 受験生には辛い誘惑のようだけど、アオイは相変わらず図書館か自宅で勉強一色の日々を送っていた。
 夜中に何度か、リビングで勉強しながら寝入ってしまっている姿を見たことがある。
 テーブルの上に突っ伏して居眠りをしているアオイの背中に毛布をかけて、 ノートに並んだ右上がりのやや角張った文字を見た。
 睡魔と闘ったのか、途中から文字がミミズのように揺らめいているのが少しおかしかった。
 アオイの寝顔は子供のようにあどけなく、彼が抱く辛い思いは眠っている時でさえ、 少しも外に姿を現さない。
 握ったままだったアオイのペンが、ふとこぼれ落ちて、 それと同時にあたしの視線は彼の手に吸い寄せられた。
 改めて間近に見ることなんて無かったので、ついまじまじとアオイの手を観察してしまう。
 何度も繋いできたその手は、当然ながら子供の頃よりずっと大きく骨ばっていて。
 すっかり立派な男の人のものだった。
 どうりで、繋ぐたびに自分の手がすっぽり包み込まれてしまうわけだ……。
 幼さを残す少年のような表情とは裏腹に、体のあちこちが妙に大人びて見えた。
 呼吸のたびに微かに上下して揺れる、広い肩もそうだ。
 子供の頃からずっと、彼はそこに色々なものを背負っていた。
 そう思うと妙に悲しくなった。 周りの人には見えない重くて辛いものを、いつも独りで抱え込んでいたのかと思うと……。
 あたしはアオイの夢が叶うことを願った。
 そして……、約束のイヴの日が訪れることを、心のどこかで恐れていた。



「ナツ、4時に出るから、用意しとけよな」
 当日の夕方近くまで部屋に篭ってカリカリやっていたアオイ。
 ひょっとして約束を忘れているんじゃないかと思ったけど、 3時を過ぎてからひょっこり出てきてあたしに声をかけた。
 お父さんとお母さんは、二人揃って午後から不在だ。
 毎年恒例の、夫婦水入らずのクリスマスディナーに出かけている。
 今年はアオイの受験も控えていて、他にも何かと微妙な時期だったので、 最初はキャンセルするつもりだったらしい。
 でもそんな二人を、アオイが強引に送り出した。
 遠慮がちに外出の仕度をするお母さんが、出かけ際にあたしにお金を預けていった。
「夕飯、二人で好きなピザでも取りなさいね」
 お母さんもお父さんも、あたしとアオイが一緒に出かけることは知らない。 そして二人とも例年通り深夜に帰ってくるだろうから、それまでに帰宅すれば何も知られずにすむ。
 けれど、そもそも隠す必要があることなのか、あたしは複雑な気分になっていた。
 高校生の兄妹がイヴに一緒に外出なんて、決してよくあることではないけれど。 でもだからといって、あえて秘密にするようなことでもない気がして……。
 だけどどういうつもりなのか、食卓でイヴの話が出たときも、アオイは一切口を閉ざしていた。 外出の予定は無いのかと、お父さんに直球で聞かれた時も、彼は何も言わなかった。
 だからあたしも、なんとなく言い出せなくなってしまったのだ。
 あたしは自分の部屋に戻ると、出かける用意と着替えをすませた。
 部屋の窓ガラスには暖房のせいで内側に水滴がついている。 外には重々しい分厚い雲が漂っていて、冷え込みは相当きつそうだった。
 クローゼットから赤いマフラーを出し、グルリと首に巻く。
 それから机の引き出しにしまってあった、小さな紙袋を取り出した。
 クリスマスプレゼント……。
 毎年家族で交換していたけれど、今年は少し違う渡し方になりそうだ。
 玄関先でアオイがバイクを動かす音が聞こえたので、あたしはその袋をバッグにしまい、 急いで一階に下りた。



 オートバイの後ろの乗せてもらうのは二度目だった。
 ヘルメットを被り、アオイの背に掴まりながら、道路を走り抜けるスピードに身を任せていた。
 アオイは行き先について何も言わず、大山手駅の手前で橋を越えると、そこからいきなり国道に出る。
 てっきり大山手の周辺でウロウロする程度かと思っていたあたしは、思わぬ遠出の気配にに驚いていた。
 耳の隣を吹き抜けていく冷たい風。
 ヘルメットとマフラー、それに着込んだコートのおかげで体に直に冷たさは感じないけど、 別の意味で落ち着かない気分だった。
 以前後ろに乗せてもらった時は、ある意味非常時だったけど……。
 イヴの日にこうやってアオイと二人乗りで遠出する、この状況はいったいどう理解すればいいのだろう?
 でもすぐに、心を刺す冷静な思考にぶち当たった。
 自分が彼に告げた言葉と、返って来ないままのアオイの答え……。 あたしは夢の中で、もう何度かその答えを聞いていた。
 耳を奪う走行音と風の中、息を詰めてアオイの背にしがみつく腕に力を込めた。



 軽く1時間は走り続けていただろう。
 国道から出てしばらく進むと、幾筋もの鉄道の線路が見えてきた。
 それらが収束していく先に、大きな駅ビルの建物と、何台ものバスが停車している 大規模ななロータリーがあった。
 周囲を囲むよう乱立する、大きな百貨店やショッピングモール、そしてビルの群れ。
 市電や私鉄が複数交差するその駅は、八重里町から約40キロ離れた都市の中心部にあった。
「すごい。都会に来たぁ……」
 夜のネオンに溢れる光景を前に、あたしは思わず声をあげる。
 東京や大阪のようないわゆる”大都市”ほどの規模ではないけれど、 日頃大山手より遠くに行くことのないあたしには、えらく眩しい都会だった。
 少し離れた場所のパーキングにバイクを預け、あたしたちは駅の方まで歩いていった。
 イヴの夜はネオンだけでなく、あちらこちらにイルミネーションの光が満ちていて、 街中はひょっとすると昼間よりも明るい。
 既に時計の針は午後6時少し前を指していた。
 混雑を避けるためにも、早めにイタリアンのレストランに入ることにしたあたしたち。
 店の前でどのコースにするかひとしきり揉めた後、結局アオイ一押しの”特別コース・サンタスペシャル”を オーダーすることになる。
 テーブル一杯にパスタやらピザが並び始め、あたしは追加でノンアルコールのマンゴーカクテルを注文した。
 ビルの22階から見える夜景が綺麗なレストランで、最初は感嘆の息を漏らしていたけれど、 料理が出てくると二人ともすっかりそっちに夢中になってしまった。
「ほら見ろ。やっぱこっちのコースにしてよかっただろ。俺の言うとおりにして正解だったぜ」
 フフンと得意げに笑っているアオイを差し置き、あたしは先陣をきってお皿に手を伸ばした。
「このピザって石釜で焼いてるんだよね! すっごい美味しそおぉ〜。いっただきまーす!」
「……無視かよ。つーかちょっと待て。それちゃんと切れてねえから」
 伸びのいいチーズを切り取って、二人して久しぶりのピザにかぶりつく。
 この間注文した宅配ピザと比べてああだこうだと評価してみたり、 サラダの中の玉葱をアオイに押し付けようとして逆に倍の量を返されたり、 味見と称してお互いのデザートを奪い合ったり……、なんとも色気のないディナーだった。
 一通り食し終えたところで、あたしは水を飲みながら言った。
「お母さんたちも今頃ご馳走食べてるのかなぁ」
「あー、あっちは桁違いのフレンチのフルコースだろうな」
「フレンチかぁ……」
 つい羨ましそうに呟くと、アオイは冗談半分でいじけたような顔をする。
「悪いな、俺、金無くて」
 それでもゲンキンなあたしは、満足したお腹をさすりながら上機嫌だった。
「全っ然悪くないよ。すっごい美味しかったもん!」
 アオイは頬杖をつき、呆れたように笑っていた。
 レストランのビルから出て大通りを歩いていくと、たくさんカップルとすれ違う。 腕を組んだり手を繋いだり、みんな仲良さそうに夜の街を行き交っていた。
 傍から見れば、多分あたしたちも……。
 一瞬そんなことを思ったりもしたけど、すぐに意味の無い考えだと気付いた。
 それでなくても、あれこれ言い合いを繰り返しては、 しょうもないことで爆笑しながら歩いていく姿には、ムードなんてものは欠片もなかっただろう。
 いかにもあたし達らしい雰囲気は、それなりに心地が良かった。
 なんだかんだで、久々にアオイと過ごす時間にあたしは浮かれていた。
 というより賑やかに騒ぐことで、できるだけ考えないようにしていたのだ。
 あたしは彼に、どうしても聞くことができないから。
 ――どういうつもりで今日、ここに連れてきてくれたの?
 ――アオイはもう、決めたの……?
 言葉にして尋ねる勇気が無くて、答えを聞くのが恐くて、目の前にある夢のような時間に逃避する。


 駅前のショッピングモールの中に入って目を瞠った。
 吹き抜けのホールに、最上階の天井まで突き抜ける巨大なクリスマスツリーがある。
 青い電光で眩く輝くそのツリーに、思わず目を奪われた。
「アオイ。すっごいよ。あたしこんな大きなツリー、初めて見たよ」
 感心して声をあげるあたしの隣で、アオイも子供みたいに無邪気な顔でツリーを見上げている。
 1階のホールでは、楽団のような人たちがクリスマス特別コンサートを開いていて、 心躍るクリスマスソングのメロディが大きく響いている。
 赤いドレスをきたソプラノ歌手の女性が、音楽に合わせて歌い声を披露していた。
 目を輝かせていると、アオイがチョイチョイと肩を突付く。
「もっと喜びそうなとこ、連れてってやるよ」
 ビルの外を指差しながらアオイは言う。
 そのままさっさと歩き出す彼の後を追って、あたしはツリーから離れた。
 駅から少し離れて、遊園地のある方角まで歩いた。
 冷え込みが厳しくなって、あたしは冷たくなった手をさする。
 青白いライトでデコレートされた、光る街路樹が並ぶ遊歩道。 そこを歩いていくと、遠くの丘の上に観覧車の光が見え始めた。
 遊園地の入口の手前までやって来て、やけに人通りの多い一画に出るなり、あたしは眩しさに目を細める。
 たどり着いたのは、際立って眩い電飾の光に満ちた広場だった。
 その先に、光のオブジェに囲まれて、まるでトンネルのような、 イルミネーションのプロムナードが続いているのが見える。
「うわぁ……! ねえ、ここってこの間テレビで映ってた場所じゃない?」
 確か唯の持ってたローカル雑誌にも、特集でクローズアップされていた気がする。 ”クリスマス目玉のデートスポット”とか、そんな大きな見出しがついていた。
 確かに、ひしめく人々のほとんどがカップルだ。
 幻想的な光の道はこの先の海岸まで続いていて、入口となるヴェルサイユ調に飾られたゲートを、 次々に恋人たちの群れが通り抜けていく。
 その光景を、立ち止まったまま複雑な思いで見ていたあたし。
 一度来てみたい場所ではあったけど、まさかアオイと来ることになるなんて思いもしなかった。
 (恋人でもないのに……)
 ――いったいどうすればいいんだろう?
 あたしが躊躇して立ち尽くしていると、アオイが横からあたしの手を掴んだ。
「なにボサっとしてんだよ。どんどん抜かされてんじゃんか。さっさと行こうぜ」
 まったく頓着しない様子で、彼はあたしをぐいぐい引っ張って行ってゲートをくぐる。
 拍子抜けするほど自然体だった。
「えっ、アオイ、ちょっと」
「手離すなよ? こんなところで迷子になられちゃ困る」
「……どういう意味よ」
 口を尖らせるあたしを横目で笑いながら、アオイはあたしの手をがっちりと握っていた。
「つめてーな。手袋忘れてきたのか?」
「あ、うん。えへへ」
「えへへじゃねーっつうの。……くそぉ〜俺の体温が奪われていくようだぜ」
 あたしは肩にかけたカバンをぎゅっと抱き寄せて、アオイの手をそっと握り返す。
 眩いその道を、人の流れに乗ってゆっくりと進んだ。
 無数の小さな電球に彩られた空間は、視界がくらくらするほど眩しくて、幻のように綺麗で、 まるで夢の世界にいるようだ。
 幻想的な光景に目を奪われながらも、あたしはずっとドキドキしたままだった。
 繋いだ手や、雑踏の中の圧迫で触れ合う腕や肩に、ついつい気がいってしまうのだ。
 手を繋ぐなんて昔から日常茶飯事だったし、さっきもバイクの後ろでアオイにしがみついていたというのに、 ここにきて今更ながらに過剰反応していた。
 カップルでごったがえす周囲の雰囲気のせいで、少しおかしくなっていたのだろうか。
 一度意識してしまったら、ずっとそのまま抜け出せず……。
 寒さだけが原因ではない顔の紅潮を、なんとかアオイに気付かれまいと必死だった。
 出口付近で一際大きな人の群れに揉まれ、体が押し潰されそうになった時、アオイがあたしを庇うように 自分の腕の中に入れた。
「つぶされんなよチビッ子」
「…………」
 あたしの鼓動の激しさはその日の最高記録をマークし、顔に昇った熱については言うまでもなかった。
 (ダメだ。いけない……)
 なんとかそれらをごまかそうと、必死に彼に抗議してみせた。
「誰がチビよっ、誰がっ!」
 人の気も知らず、頭上からはアオイのふざけたような、屈託のない笑い声が聞こえてくる。
 出口に近付くにつれて一層ひしめく群衆に揉まれ、意図せず抱きしめられるような体勢になってしまう。
 思っていたより広いアオイの胸に体が押しつけられて、本気で心臓がおかしくなるんじゃないかと思った。
 あたしは必死に自分の心に暗示をかけようとしていた。
 ――ドキドキするのは、綺麗な光景に興奮しているからだ。
 ――顔が熱くなるのは、人ごみの熱気に当てられたせいなのだ。
 そんな風に、一生懸命言い聞かせてはみたけれど。
 どうしようもなく、心の奥から溢れ出してくるものの勢いは止まらなかった。
 触れ合う体は、信じられないほどに、温かくて、切なくて……。
 このまま世界の時間が止まればいいと思ってしまった。





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