ナ ツ ア オ イ

わかれ道 5



 人ごみに酔ったのと、歩き疲れたせいで、再び駅のほうに戻ってきた時にはもうヘロヘロだった。
 手は繋いだまま、来た道を戻っていくあたしたち。
 駅ビルの壁面に設置された巨大なデジタル時計は、午後8時55分を表示している。
 魔法が解ける時間が来るのを感じていた。
 いつもアオイと過ごす時間はあっという間に過ぎていたけれど。 今日はまた特別に光速で過ぎ去ってしまった気がする。
 パーキングに戻り、アオイはオートバイのエンジンを蒸かす。
 冷えわたる空気の中、白い煙が噴き出すのを見守って、来た時と同じように、 アオイの後ろに乗って帰路についた。


 そのまま家に帰ると思い込んでいたあたしは、バイクが停車した場所に驚いた。
 やけにカーブの上り坂をグルグル登っているような気はしていたけれど、 ろくに景色を見ていなかったせいで、どの道をどう走ってきたのかもわからない。 それでなくても夜の暗さのせいで、道路や地理関係なんてさっぱり把握できていなかった。
 降ろされたのは、かなり高度のある場所らしかった。
 バイクを停めた小さな空き地は、崖の上にせり出すような形で、眼下に夜景が広がっている。
 ひとかたまりの光の群れが遠くのほうに浮かんで見えるのは、もしかしたらさっきまでいた街かもしれない。
 どうやらあたしたちが居る場所は、山腹を切り開いてできた住宅地のようだった。
 クリスマスの夜、点在する民家にはどこも灯りが灯っているけれど、外の道はシンとしていて 人の姿はほとんど見られない。
 比較的新しい家々の前庭に飾られたツリーやら、サンタのオブジェやらがライトアップされ、 静まり返る夜の世界に寂しげに光を添えていた。
「……アオイ、どこに行く気?」
「いいからついて来いよ」
 アオイは整備された坂道を迷わず登って行く。
「え、ちょっと……、アオイ?」
 あたしは慌てて後を追いながら、予測のつかない彼の行動に困惑していた。
 住宅街とはいえ土地の傾斜はかなり急だ。
 街灯に照らされた細い坂道と階段が、山肌に沿うように更に上へと続いている。
 等間隔に並んだ街灯の光のラインは、ほぼ山頂近くにまで連なって見えていた。
 休み無く登り続けて、最初の場所よりも更に高いところまで上がって来た。
 アオイは一体何がしたいんだろうか。
 (こんなところに知り合いなんて、住んでるはずないし……)
 不審に思いながら彼の後を追っていると、ふいにアオイは立ち止まった。
「この上が、目的地」
 彼の指が、更に続く階段の上方を指し示している。
「え……?」
 いくつめかの長い階段を登りきって、息を切らしていたあたし。
 示された先を見上げてげんなりした。
「ま、まだ登るの?」
 アオイの足は既に、新しい階段の何段目かにまで踏み込んでいる。
 そのまま軽々とした足取りでどんどん先に登っていってしまった。
 山頂近くまで登ってきたせいか、民家の灯りもすっかり遠ざかってしまって、景色が暗い。
 その階段の上は、鬱蒼とした黒い木のような陰に覆われていた。
 夜の闇のせいで、街灯に照らされた足元以外は、何があるのか全く予測がつかなかった。
 (なんであたし、クリスマスに登山なんかしてるんだろ……)
 とにかくアオイに置いていかれないように階段を登り進み、あたしはようやくその”目的地”とやらに到着した。


 なんのことはない、そこにあるのは普通の公園だった。
 登り進んできた住宅街の坂の一番上にある、規模の小さいアスレチック場のような遊び場だ。
 中央にある、えらく巨大な石製の滑り台が真っ先に目を引いた。
 周囲にはブランコやジャングルジム、タイヤに掴まってロープを滑る子供向け遊具などが揃っている。
 アオイはその真ん中の巨大滑り台の前に立っていた。
「ナツも来いよ!」
 滑り台の裏側にある階段を駆け上ると、頂点からひょっこり顔を出して手招きをする。
 (まったく、子供じゃないんだから……)
「ほら早く!」
 アオイがうるさいので、あたしは仕方なく言うとおりにした。
 石の階段を登りてっぺんにたどり着くと、仁王立ちで立ちはだかっていたアオイがあたしの手を引いて引き上げる。
 結構な高さに少しひやっとした。
 鉄の手摺を掴んでアオイの隣に立ち、吹き付ける冷たい風に目をそばめた。
 そして改めて目を開いた時、眼前の景色に驚いた。
「うわぁ……」
 そこはとりわけ高い位置にある公園だった。ほぼ山頂に近いと言っていい。
 巨大な滑り台の上に立つと、更に高さが突き抜けている。
 山の斜面に沿って点在する家々の疎(まばら)な光が、眼下に見渡せる展望台のようになっていた。
 ほぼ360度、視界は開けていて、まるで自分が世界の頂点にでもいるような気分になる。
「すげーだろ。でも、もっとすげーのが……」
 言いながら、アオイは得意げに、人差し指で空を指す。
 つられるように上空を見上げたあたしは、思わず息を飲みこんだ。

 目に映ったのは、一面に広がる星空――。

 ドーム状の天球が障害物もなく、頭上に無限に広がっている。
 まるで平たい地球儀の表面に立って、丸ごと宇宙を独り占めしているような、そんな気分。
 光の少ない山間部で、星は明るくはっきりと、空の全面にひしめいていた。 八重里のあの公園で見上げていた星空よりも、ずっとずっと宇宙に近い感覚がある。
「前に東京行った帰りにウロついてて、偶然見つけたんだ。これは絶対ナツに見せたいと思って」
「……すごい。すごいよアオイ! ……ありがとう!」
 あたしは興奮に目を輝かせて白い息を吐きながら、のけぞるような体勢で首が痛くなるまで、 その素晴らしい光景を見上げていた。



 冬の星座がひしめく空をひとしきりを堪能したあと、 滑り台の上に二人で並んで腰掛けていた。
 あたしはアオイにクリスマスプレゼントの包みを渡した。
 プレゼントといってもそっけない紙の袋に入っている。
「ごめんね、ラッピングする時間がなくて……」
 ゴソゴソと中身を取り出したアオイは驚いていた。
「手袋じゃん。おまえがつくったの?」
 照れくさくて、あたしは横を向いてうなづいた。
 今年のクリスマスは、皆に手作りの手袋をプレゼントしようと決めて、一生懸命編んでいた。
 いちおう4人お揃いなのだ。
「……そっか。それで、このところ遅くまで起きてたのか」
 アオイは得心したようにつぶやき、その手袋に手を通す。
 アオイのは紺、お父さんのはモスグリーン、お母さんのは白、あたしのは赤い毛糸を選んだ。
 一番最初に編んだ自分のぶんはガタガタで見栄えが悪いけど、最後に編んだアオイのは、 それなりに綺麗にできたと思う。
 春香に編み方を教えてもらいながら、日々編み棒と格闘していたのだ。
「で、このプレゼントだけ持ってきて、自分の手袋忘れたのか?」
「……あー。ははは。ほら、あたしの手袋って、何年か前にお母さんに編んでもらったやつだったじゃない?  参考にしようといじくってるうちに、ついほどいちゃって、そしたら戻せなくなって……」
 かといって、今回編んだ自分のぶんの手袋は、とても持ち歩けるような代物ではなかった。 あまりに哀れな出来栄えだったので、後日編みなおす予定になっている……。
「ふーん。おまえって、意外とマメだよな」
「……『意外と』は余計」
 アオイは感心したように両手を目の高さにまで挙げて、色んな角度から手袋を眺めている。
 それからふと気付いたように言った。
「俺、プレゼント用意してない。考えたけど思いつかなくて……」
 柄にも無く、申し訳無さそうにうなだれている。
 あたしは思わず声を出して笑った。
 子供の頃から毎年、アオイの用意してくるクリスマスプレゼントといえば、変なものばかりだった。
 笑い袋とか、ぶーぶークッションとか、変な目がペイントされたアイマスクとか……。 どこで見つけてくるのか知らないけど、ウケ狙いの寒いお笑いグッズしか、もらった記憶がない。
「期待してないってアオイには。それに……」
 あたしは立ち上がった。
 もう一度、頭上に広がる雲一つ無い夜空を仰ぎ見る。
「これで十分だよ……」
 昔アオイに教えてもらった、オリオンの二つの一等星が、一際明るく輝いていた。
 今日ここで見たこの星空は、きっと一生特別な記憶になるだろう。
 アオイと二人で見る、極上のプラネタリウム。
 クリスマスの夜の最高の思い出……。
 あたしは目を閉じて、軽く深呼吸をした。
 ――あたしはもう、アオイに十分な思い出をもらった……。


「――――ナツ」

 突然、至近距離から聞こえた、アオイの声。
「え、……な……――っ」
 完全に隙を突かれてしまい、振り向く間もなかった。
 その瞬間、目を見開いてビクリと体を震わせて、そのままあたしは硬直してしまった。
「…………」
 何が起きたのかわからなかった。
 気付けば背後から拘束されていた。
 アオイの腕が肩に巻き付いている。
 背中から抱きしめられる形で、あたしの体はアオイの腕の中に納まっていた。
 真横に見える、アオイの白い吐息――。
「……ア、アオ……」
 混乱して手足をバタつかせるあたしをぎゅっと閉じ込めて、アオイは静かに言った。

「――俺、東京に行く」

「…………」
 あたしの動きはピタリと止まる。
 体温が上昇して高鳴っていた心臓が、吸い込んだ空気の冷たさであっけなく鎮まっていくのがわかった。
 アオイのその言葉が、何度も耳の奥にこだましていた。
 とても短い言葉だったけれど、彼が出した最終結論に他ならなかった。
 ――『東京に行く』。
 それは、あたしたちとの決別を意味する言葉。
 家族ではなくなってしまう言葉。
 兄妹の絆を断ち切ってしまう、言葉……。
 静かな星空の下でそのまま、どのくらいの時間が流れただろう。
 いつしかあたしの頬を涙の筋が伝って、首の下にあるアオイのジャケットの袖に落ちた。
 だけど、あたしの心は静かだった。
 ――わかっていた。
 アオイが選ぶべき道は、あの時からわかっていた。 雨の中、喪服姿で電車から降りてきたアオイの、あの表情を見た時から……。
 あたしは少しずつ覚悟をしていた。そして、自ら彼の背中を押すことを決意したのだ。
「ごめんな。約束やぶって」
 耳のすぐ横で響く声。
 鼻の頭を赤くして、あたしはただ前を向いていた。
「でも俺、すげー嬉しかった。あの時、行くなって言ってくれた時もそうだけど、 ホテルで母さんに向かってナツが言った言葉が、すごく……」
 彼は万感の思いを込めるように言った。
 温かい体温が、背中から、肩から、首から、優しく伝わった。 低く穏やかな声は、どこか甘くあたしを包み込む。 別れを告げる言葉を、まやかしで覆い隠してしまいそうなほどに。
 もう二度と包まれることのないであろう、最初で最後の、アオイの腕の中。 胸が締め付けられるほどに、暖かく切ない世界だった。
 あたしは恍惚としてその甘さに囚われながら、ただ彼の言葉を受け止めるしかできない。
「ものすごく、嬉しかったんだ……」
 抱きしめられる腕に、ぎゅっと力が入った。
 アオイの声は、少しだけ震えていたのかもしれない。

「ナツ、ありがとうな」

「…………」
 ――『ありがとうな』。
 熱い雫が頬を伝う感覚だけが、これは現実なのだと教えてくれた。
 流れ落ちるこの涙が、アオイの袖をどれだけ濡らしても、この現実はもう後戻りすることはないのだろう。
 失いかけて気付いた大切な日々はやはり、どんなに引き止めようともがいても、 遠く切ない思い出になってしまう。 
 ――それが、あたしたちの運命だった。
 あたしたちが進むべき道は、ここから分かれ分かれになって、それぞれ別の方向へ向かっていく。
 この涙も、腕の温もりも、時間をかけていつかは記憶の一ページにおさまっていくに違いない。
 ただ、それでもこの星空だけは……。涙に揺らいで見える夜空の光だけは、この目に焼きついていつまでも消えることが無いのだろう。





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