ナ ツ ア オ イ

わかれ道 6



 それからの日々、あたしたち家族は、残された時間をできる限り共に過ごした。
 年末の大掃除に精を出し、庭で餅つきをして、おせちの準備をして……、 そして大晦日の除夜の鐘を聞きながら、岩上神社まで初詣に出かけた。
 毎年恒例の家族行事もこれで最後かと思うと、感慨深くなる。
 些細なことさえ大切な時間だと思えてきて、一瞬一瞬を記憶に焼き付けるようにかみしめていた。
 あのイヴの夜は、半分現実で半分夢だったんじゃないかとあたしは今でも思う。
 いつまでも耳から離れないアオイの声と、涙で曇った星空と。
 翌日からすっかり平常通りの生活を送るあたしたちは、あの夜が幻であったかのように、 あまりに自然に、これまで通りの兄と妹に戻っていた。
 アオイはお父さん達とも、きちんと話をしたようだ。
 彼が自分で出した結論を、二人とも静かに受け入れ、そして事態は落ち着いたのだろう。
 もう誰もその話を口に出すことはしなかった。
 年が明けると、アオイは受験のラストスパートに追われる。
 あたしとお母さんは毎晩アオイのために夜食を作り、 お父さんは遠くの神社にまで合格祈願の御札を貰いに行って、朝晩欠かさずに少し胡散臭い祈祷をしたりしていた。
 すっかり家族総出で臨戦態勢に入り、その大げさな様子に当のアオイはやや困惑気味に苦笑していた。
 広川家は、受験生を抱えただけの、ごく普通の家庭の姿だった。
 あたしの居場所は夏が来る前と同じ、そんな穏やかで温かいものに戻っていた。


 お正月に唯と春香に会ったとき、二人はあたしの淡々とした態度に驚いていた。
「気持ちも伝えないまま終わらせてしまうなんて……」
「ナツはほんとにそれでいいの?」
 二人はあたしを心配してそう言ってくれたけど、あたしの心は少しずつ、自分の気持ちにケジメをつける方向に向かっていた。
 アオイはどうしたって特別な存在だ。
 重ねてきた気持ちを吹っ切ることなんて、本当にできるのかわからない。
 だけど……、やはり口に出すのは許されないことだった。
 目に見えない何かへの”冒涜”のようであり、お父さんやお母さんへの”裏切り”のようにも思えた。
 血が繋がってないんだからいいじゃないか、とか、そういう単純な問題じゃなかった。
 物心ついて間もない頃から、ずっと家族として過ごしてきたあたしたち。
 そこにはやはり、踏み越えてはいけない境界線があると気付いた。
 ――たった一言で、壊れてしまうものがある。
 二人の間に確かに息づいている、家族としての絆。
 それはアオイが必死に守ってきたものでもあるのだ。
 あたしのたった一言で、それが壊れてしまうかもしれない。
 ずっと守られてきたあたしに、彼から大切なものを取り上げる資格なんて無いのだ。
 ――神様は願いを叶えてはくれなかったけど……。
 せめて思い出だけでも。 
 あたしはアオイが大切にしてきたものを守りたいと思った。 



 八重里町の風景が白く埋もれる雪の季節。
 センター試験、私立大受験と、勝負の時期が受験生を飲み込んでいく。
 本命大学の受験を前に、交通機関の乱れを懸念したアオイは、数日早く東京のホテルに宿泊していた。
『はいっ深呼吸! 落ち着いていこーっ!!』
 試験前日、あたしの打ったメールに、アオイは返事をよこす。
『余裕余裕。オレって神経図太いから。ところで東京土産、何がいい?』 
 いかにもアオイらしい様子に安心し、あたしたちは一心に祈った。
 ――アオイの夢が叶いますように。
 その祈りは天に届いたようで……。
 2月下旬、アオイは第一志望大学の合格通知を手に入れた。



 雪が溶け、新しい息吹を感じさせる、3月の上旬。
 千鶴ちゃんはアオイとは別の、東京の私立大へ。
 高梨先輩は県内にある国立大学へ。
 それぞれ進学が確定した。
 受験が終わったあともアオイは多忙だった。 引越しの準備や、戸籍関係の手続で何かとバタバタとしていたようで、他の3年生のように弾けて 豪遊している暇も無い様子だった。
 東京へも何度か足を運びながら、彼の残り少ないこの町での時間は瞬く間にすぎていく。
 気付けばもう、卒業式の日が迫っていた。
 そして、家では合格祝賀会を兼ねて、実質お別れ会のようなものを開くことになった。
 正真正銘、四人が揃う最後の家族行事。
 といっても、いつも通り騒いで食べて、お父さんとアオイのボケツッコミを聞いて……。 ほんとに日常と変わらない食卓で、あたしはアオイがいなくなることが嘘みたいだと感じていた。
「そういえば、ナツは進路どうすんだよ。そろそろはっきりさせないと、もう3年だろ」
 手元のお茶を飲み干して、アオイは思い出したように尋ねてくる。
 進路希望調査表には”進学”にマルをつけて提出したものの、志望校や志望学部までは決められなかった。
 ずっと考えてはいるけれど、どうしても自分のやりたいことがはっきりしない。
 将来の自分の姿がどうしても、見えてこなかった。
「ナツ、焦る必要はないぞ。後悔しないようにじっくり考えて決めたらいい。 なんだかんだで、若いうちはやり直しだってきくからな」
 お父さんの言葉に、お母さんも同調する。
「そうよ。ナツ。お父さんだって、柔道の道から突然医学の世界へ急転換しちゃったんだから」
 うんうんとお母さんの言葉に頷いていたお父さんは、唐突に何かを思いついたように顔を硬直させた。
「じっくり考えるのはいいが……、頼むから、突然”お嫁さん”になるとか、 そういうドッキリみたいな展開は勘弁してくれよ?」
「なっ……、どこからそんな想像が湧いてくるのよ。ありえないっ!」
「……ならいいけどな」
 真っ赤な顔で全否定するあたしに、ちょっとホっとしてるお父さん。
 その横でお母さんがやけに楽しそうだ。
「あらぁ、ナツ、そんなに赤くなって……、誰か思い当たる相手でもいるのかしら?」
 意味深にニタリと笑うお母さんの顔。
 その隣でお父さんの顔が噴火した。
「なにぃ! やっぱりそうなのかナツぅ!?」
「いないってば!!」
 (もう、勘弁してよ……)
 そこへ更に、余計な口を挟むアオイときた。
「あー心配ないない。ナツは当分無理だよ。少なくともガサツなのをなんとかしないとな。 この間なんて、ソファーで居眠りしながら『焼肉丼大盛』とか大声で寝言言って、色気より食い気……うぐっ!」
 アオイのわき腹に、思いっきり肘鉄をくらわせた。
「……く、……口より先に手が出てるうちは、期待できないぜ……」
 横腹を押さえて苦しそうに、それでもなおも憎まれ口をたたくアオイ。
 おかしそうに笑いまでこらえているのだから、ほんっとに憎たらしい。
 あたしはプイと顔を背けて、最後に取っておいたエビフライにかぶりついた。
 いつまでたっても隣の席で、押し殺したような笑い声は途絶えない。
「……ちょっと、いつまで笑ってんのよ……」
 しつこくお腹を抱えて震えているアオイを、ジロリと横目で睨む。
 でも、そのアオイの横顔を見て、あたしは思わずお箸の動きを止めた。
 失礼な笑い声を漏らしながら、アオイの表情が少しずつ沈んでいくのがわかったのだ。
 複雑に顔をゆがめて、彼はポツリと言った。

「……今日で、最後か」

 お父さんとお母さんも、手を止めてアオイのほうを見る。
「”広川葵”でいられんのも、今日で最後なんだな」
 家庭裁判所の審判やらなんやらが絡んだ戸籍関係の手続は面倒だったようだ。
 手続上の都合で、アオイの籍は明日付けで、美雪さんの戸籍に移ることになっている。
 正式にアオイが”広川”姓を名乗るのも、今日が最後となっていた。
「…………」
 いよいよ迫る別れの決定打のようなその事実に、改めて心が重くなるのを感じた。
 アオイは泣くわけではなく、薄い笑いをはりつかせているだけだ。
 思えば子供の頃から、アオイが泣いているところなんて見たことが無い。
 記憶の中の彼はいつも陽気な笑顔を浮かべていた。
 でも、だからといって、心までがいつも笑っていたわけじゃない。 むしろアオイの感情は、いつだって誰より敏感に動いていた。
 周りに気を配ってはいつもムードメーカーを演じていたけれど、 辛い思いを隠して無理に笑っていたことだって、きっと何度もあったのだ。
 それでも無意識に周りの空気を気遣う癖がついてしまった彼は、 いつしか人に弱味を見せなくなっていた。
 今だって、寂しいのは置いていかれるあたしたちだけじゃない。
 この先に待ち受ける新しい環境への、不安だって……。
 シンと静まり返ってしまった食卓で、お父さんが口を開いた。
「アオイ、言っておくが、ここを出てもおまえが家族の一員であることに変わりは無いんだぞ」
 あたしは弾かれたように顔をあげ、お父さんを見る。
 アオイも、同じようにお父さんを見ていた。
「別々に暮らそうが、戸籍が変わろうが、そんな形式的なもんでは何も変わらん。 積み上げてきた年月ってのは、そう簡単に消えちまうもんじゃないだろう?」
 お父さんの言葉は太く、たくましくて、何より深い。
 重く沈んでいた心を下から持ち上げてくれるような、そんな不思議な力強さがあった。
「お前は死ぬまでこの俺の息子で、母さんの息子で、ナツの兄さんなんだよ。 ……だからいつでも帰ってきていいんだ」
 奥二重の目を細め、自分の息子を見ながら、お父さんは繰り返す。
「いつでも帰ってくればいい。ここは、この先もずっとお前の”帰る家”だ」
「……父さん」
 お母さんも目に薄っすらと涙を浮かべながら言った。
「そうよ、アオイくん。あなたが私の息子であることに変わりはないの。 これからもずっと、アオイくんとナツは二人とも私の大切な子供よ」
「母さん……」
 アオイの声は、何かに堪えるように震えていた。
 彼はやはり涙は流さなかったけれど、きっと泣いていたんだと思う。
 あたしも泣いていた。
 アオイと違って、ボロボロと大粒の涙をこぼしながら……。
 一転してしんみりとした空気に包まれる食卓。
 だけど真横であたしがズルズルと鼻をすすって泣くものだから、アオイはすぐに表情を崩した。
 呆れ顔で笑いながら、横からあたしの頭をワサワサなでる。
「しゃーねぇよな。やっぱ俺がいないと皆が困るからな」
 調子のいいことを言いながら、アオイの顔に浮かぶ、少し寂しそうだけど嘘の無い笑顔。
 それを見たあたしは少しだけ、救われたような気持ちになる。 
 お父さんの言葉から、あたしはようやく大切なことに気付いた。
 神様は、願いを叶えてくれなかったわけじゃない。
 あたしたち家族は、壊れるわけじゃない。
 ただ、ほんの少し、形を変えるだけだ……。
 別れた道は別々の方角へ向かっていても、完全に隔たってしまうわけじゃない。
 手を振ればきっと、それぞれの道を歩いていくお互いの姿が遠くに見えるに違いないのだ。
 もう、4人全員揃ってお正月を迎えることは無いのかもしれない。
 こんなふうに一緒に何かをお祝いすることも無いのかもしれない。
 けれど……。
 あたしたちの家族が壊れることはないだろう。
 離れていてもアオイはあたしの大切な家族で、この家はアオイの帰る場所に違いないのだから。
 ――アオイがそう信じるのなら、あたしだってそう信じる。
 グイグイと頭を押さえつけられながら、あたしはアオイのわき腹をくすぐって反撃した。
「うおっ、やめろよっっ」
 変な声を出して体をよじるアオイ。
 あたしは調子の乗って、ここぞとばかりに彼を追いつめる。
 ――信じるから……。
 再びワイワイと賑わいを取り戻した家族の団欒の中、あたしはそう心に誓った。



 ――――春。
 卒業式を終え、あたしたちの高校から、一番身近にいた先輩たちが巣立っていった。
 そしてあたしたちの家から、アオイは旅立った。
 朝早く、まるで見送りを拒むかのように、ひっそりと家を出た。
 朝靄で霞む、まだ薄暗い道の向こうへ、アオイの背中は消えていった。
 がらんとしてしまったアオイの部屋。
 微かに彼の匂いがするその部屋で、あたしは声が響かないように静かに泣いた。
 たくさんの想いに、別れを告げた。

 玄関から姿を消した、くたびれた大きなスニーカー。
 一本足りない、洗面所の歯ブラシ。
 気のせいか、少し広くなった家の中――。
 開いたアオイの部屋の窓から、温かい春の風が吹き抜ける。
 あたしは涙を拭い、この町の澄みきった空を見上げた。
 いつか、彼がここに帰ってきたときには、きっとこの涙も乾いているだろう。
 「ただいま」と彼が言ったなら、あたしは笑ってこう言うのだ。

 ――「おかえり」。
 お兄ちゃん、おかえり、と……。





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