ナ ツ ア オ イ

わかれ道 7



 診療所へ続く坂道を登ると、夕焼けに染まる空が見えた。
 少し前まで肌寒かったのが嘘のように、最近では昼間は汗ばむほどになってきた。
 錆び付いたアルミの看板の前を通り過ぎ、相変わらず立て付けの悪い扉を開ける。
 ちょうど出くわした玉井のおばあちゃんに手を貸して、坂を下りきるまで見守った。
 坂の下から手を振っているおばあちゃんに、あたしも大きく手を振り返す。
「足もと気をつけてよー! お大事にねー!」
 それから診療所の中に入ると、待合室で片付けをしていた仲野さんが、出迎えてくれた。
「玉井のおばあちゃん、最近すごく調子がいいみたいよ。自分のつくった野菜には若返りの成分があるんだって 言ってたわ。100歳まで生きて玄孫の顔を見るんですって」
「玉井農園の野菜はこの辺りでも特別だからね。栄養だって半端じゃないんだよ」
 あたしたちの話し声を聞きつけてか、診察室からお父さんが顔をのぞかせた。
「おうナツ! 来てくれたのか!」
「来たよー。ほらっ、お待ち兼ねの”愛・妻・弁・当”!」
 あたしがお弁当箱の入った紙袋を掲げると、お父さんは照れもせずに目を輝かせた。
 とたんに子供みたいな顔になる。
 ほんと、こういうところは相変わらず彼の息子とそっくりだ。
「悪いなぁ、受験生のナツにこんなことさせて」
 やけにしおらしく、遠慮がちに肩を落とすお父さん。
「いいのいいの。どうせずっと勉強しっぱなしってわけじゃないんだし。それに、受験を言い訳に親の手伝いも しない奴なんてロクな大人にならない、って、担任が言ってたよ」
「ほうほう。なるほど」
 お父さんは再び嬉しそうにお弁当を抱え、あたしの言葉に興味深げにうなづいている。
 お弁当箱を机の上に置くと、白衣の前をはだけてバタバタと団扇を仰ぎ始めた。
「しかし……、今日はまた随分と気温が上がったなぁ。梅雨があけたと思ったら、あっというまにこの暑さだ」
 省エネのために扇風機しか作動していない診療所は少し蒸し暑い。
 少し前までは夏でも朝晩は涼しい地域だったけど、さすがに近年は、温暖化のせいか エアコンが無いと過ごし辛い状況になっていた。
 今年は診療所のエアコンも新調したほうがよさそうだなぁと、ブツブツ言いながら、 お父さんは少し疲れたような溜息をついた。
「あのね、お父さん……」
 あたしは診察用の回転椅子に座り、少し姿勢を正してお父さんに向き合う。
「ん、どうした? 改まって」
「あたしね、決めたよ」
 お父さんの目をまっすぐ見つめて言った。
「――N大の法学部を目指すことにしたの」
 あたしの、強い決意と覚悟を込めた言葉。
 それを受け止め、お父さんは目尻を下げてゆっくりとうなづいた。
「……そうか」
 3年になって、とりあえず文系コースを選択してはいたものの、 具体的な学部まではいつまでたっても決められずにいた。
 半年以上の期間、あたしは悩みに悩みぬいて、ようやく一つの夢を見出した。
 あることをきっかけに、法律を勉強してみたいと思うようになったのだ。
 そしてできれば、県内にある国立のN大でそれを学びたいと。
「いいんじゃないか? ナツが法学部とは、少し意外だったけどなぁ」
「大学に通いながら、挑戦できそうな資格とか探してね、それでそっち系の仕事を探すつもり」
「そうか。……こういう時代だからな。まず先のことを考えてから進路を決めるが正解かもしれないな」
 お父さんは大きな手であたしの肩をポンと叩く。
「頑張れよ! ナツは賢いからな。本気でぶつかれば第一志望を勝ち取れるはずだ!」
「……うん!」
 あたしは意気込みも新たに、強くうなづいた。
 いくら片田舎にあるとはいっても、国立大学だ。生半可な学力と努力で合格できるような甘い道ではない。
 志望大学をN大に決めた時点で、あたしの覚悟は後戻りできないほど強く固まっていた。
「そういえば……」
 お父さんはふと、窓の外に目を向けた。
 六畳ほどしかない古い診察室の中に、少しずつ、日没後の涼やかな風が入ってきている。
 天井の蛍光灯の辺りで、さっきから小さな蛾が光を求めて飛び回っていた。
「去年の今ごろはアオイの奴が、柄にも無く勉強に本腰入れ始めてゴタゴタやってたな」
 あたしも、随分前のことのようにも感じられる、昨年の夏のことを思い返していた。
 すっかり暗くなった窓の外を見ながら。
 そうしていると、よくこの診療所にまで迎えに来てくれたアオイのことが、何より鮮明に思い出されてしまう。
 こうしてお父さんと話してると、アオイの大きな声が聞こえてきて。
 ノックもなしに扉が開いて、彼がズカズカ入ってきて、お父さんのお弁当をつまみ食いして……。
 それから二人で話しながら、夜の畦道を歩いて家まで帰った――。
「早いもんだなぁ、もう一年か。いやぁ子供の成長ってのは早いもんだ」
 感慨深げにしみじみと語るお父さんを前に、あたしは遠いような近いような記憶の中の光に目をそばめる。
 それから少しだけ苦い笑いを浮かべた。
 その表情に気付いたのか、お父さんはそこで言葉を止めた。
「……ナツ」
「なに?」
 お父さんは何を思ったのか、あたしの顔をじいっと見ていた。
 立ち上がり、ゆったりとした足取りで部屋の入口にまで歩いていく。
 ガラガラと診察室の扉を開けた。
「外は、いい風みたいだ。――なあ、帰る前に夕涼みでもしていかないか?」


 少し高台にある診療所の敷地には、仲野さんが手入れしてくれている小さな花壇と、 車を2台ほど止める駐車場がある。
 外はすっかり暗く、診療所の看板の前に設置された外灯が敷地内を薄ぼんやりと照らしていた。
 花壇の横手には敷地を囲う柵があり、そこから坂の下を歩いていく通行人の姿を見下ろすことができる。
 そのすぐ横にある、樹脂製の古いベンチ。
 座るとギシって音をたてるそのベンチの端に、あたしは腰掛けた。
 お父さんは花壇の近くに立ったまま、気持ち良さそうに空を仰いで風を感じている。
 日が暮れて、昼間とは違って少しひんやりした風が、静かに漂っていた。
 頬を撫でて髪を揺らしていくその風に、心地よさを感じた。
「この時期になると思い出すなぁ。ちょうど今頃、皆でこの町に越してきたんだったよな」
 柵に片手をついて、眼下の道路を見ながらお父さんは言った。
「まだナツもアオイもこんなに小さかったな。あの古い家の庭に、みんなで野菜植えたり、色々やってたな」
 しみじみと話すお父さん。
 あたしも、懐かしい時代の記憶をたどった。
「当時はナツがまだ俺に心開いてくれなくてな。どうやって笑わせようか、とにかく必死だったよ」
 お父さんの顔には、ほろ苦い笑みが浮かんでいる。
 あたしは軽く目を伏せた。
「……ごめんね。あの頃のあたし、お父さんにたくさん嫌な思いさせたね」
 その言葉に、お父さんは今度は声をあげて快活に笑った。
「別に嫌な思いなんてしてないさ。それ以上にナツは、大切なものをくれたからな」
 あたしは思わず、お父さんの顔を見上げていた。
 診療所の薄暗い前庭で、お父さんの白衣の白だけがやけに眩しかった。
「あたし……、何も返せてないよ。お父さんにも、……アオイにも」
 『ありがとう』と、あのイヴの夜、アオイはあたしに言ってくれたけど。
 本当にお礼を言うべきなのはあたしのほうだった。
 でも結局、最後まで言えないままで。
 その代わりにあたしは、誓いをたてた。 これからはアオイに代わって、大切なものを守り続けていくという誓いを……。
「ナツ、おまえは知らないんだな。おまえの存在は、アオイにとってずっと特別だったんだよ。 あいつはナツに救われてたんだ」
「……え」
 あたしはもう一度顔をあげて、まじまじとお父さんの顔を凝視する。
 アオイがあたしに救われたなんて……、お父さんがあまりに突拍子も無いことを言い出すものだから。
 でもお父さんの眼差しは、大らかで真摯な光を宿していた。
「アオイには、幼い頃に辛い思いをさせちまったからな。軽口叩いてヘラヘラしてても、 あいつは案外脆い部分のある奴だった」
 『辛い思い』とは、両親の離婚のことだろう。
 そして離婚に至るまでの、夫婦の間の確執も……。
 そんなものを日常的に目の当たりにしてきた幼いアオイのことを思うと、いまだに胸が痛んだ。
 自分の辛さを隠したまま、あたしに手を差し伸べてくれた彼のことを思うと……。
 (だけど、あたしは……)
「だからアオイは、ナツに頼られてナツを守ることで、救われていた。必要とされることで、 自分の存在が許される気がしてたんだろうな。あいつなりに新しい居場所を守ろうと奮闘して……、 その象徴がまさにナツだったんだよ」
「…………」
 あたしは、アオイの小さかった手の温もりを思い出す。そして、あの太陽みたいな笑顔を。
 あの頃の彼に、あたしは心の中で問いかけた。
 ――こんなあたしでも、アオイにとって少しは必要な存在だった?
 ――アオイに守られてばかりだった、泣き虫でワガママなあたしだけど……。
 自然とこぼれる涙を、腕にはめたリストバンドで拭う。
 白地に水色の星マークとロゴがついたそれは、奇しくも去年の誕生日にアオイがくれたものだった。
 お父さんはあたしの肩に手を置き、大きな体を少し屈める。
 目線の高さを合わせるようにして、優しく笑った。
「もちろん、ナツに救われたのはアオイだけじゃない。お父さんだって、おんなじだよ」
 グスリと鼻を鳴らし、お父さんの目をまっすぐ見つめる。
「……ほんとに?」
「ああ。ナツとアオイ、そしてお母さんの存在が全部、お父さんの心の支えだった。 そしてそれは、これからもずっと変わらないんだ」


 その日の夜、押入れの奥にあるアルバムを引っ張り出した。
 この町であたしたち家族が暮らし始めてからの、かけがえのない日々がそこに綴られている。
 そして同じ箱の中に、お母さんが綺麗に製本したアルバムとは別の、何枚かの写真が雑多に紛れ込んでいた。
 お母さんたちが再婚する前の、アオイの幼い頃の写真だ。
 あたしはその一枚を手にとって、お父さんの言葉を思い返していた。
 小さなアオイは無邪気な笑顔で映っていたけれど……。
 つい、もう一枚の写真の笑顔と見比べてしまった。 アルバムに閉じられた方の、あたしと一緒にスイカを食べながら笑ってる、少し大きくなったアオイの写真と……。
 あたしの隣で、生き生きと笑っているアオイ。
 前歯が一本欠けてるせいで、少しマヌケな笑顔。
 でも、底抜けに眩しくて、明るくて……。
 その懐かしく微笑ましい笑顔に、つい顔をほころばせた。
 ――アオイは幸せだったって、思ってもいいんだよね……?



「せっかくなんだから。二人でどっか行っておいでよ。そのほうがあたしも受験勉強に集中できるし」
 今年も巡ってきた恒例の結婚記念日。
 既に先月に、アオイから二人宛に旅行券が送られてきていた。
 旅行社での手続きはあたしがするようにと、走り書きの指令メモがついており、 どうやらそれで”二人からのプレゼント”ということにしてくれるらしい。
 その旅行券を片手に、お母さんが少し渋い顔をする。
「せっかくだけど、ナツ一人を家に残していくのは……」
「何言ってんの。あたしもう18だよ? 一晩くらい一人でも平気だって」
「でも……」
 踏み切れない様子のお母さんに、あたしは言った。
「言ったでしょ? 受験生なんだから、一人のほうが集中できるし、ちょうどいいんだよ。 食事は自分で適当に作るし、全然気使わなくていいからね」
「……ほんとに大丈夫なの?」
「大丈夫大丈夫! だから二人で行っておいでって。楽しんできてよ〜」
 あたしはお母さんとお父さんに向かって、笑顔でブイサインをする。
 しつこく心配げな表情を貼りつかせていたお母さんが、苦笑を浮かべた。
「ナツ、なんだかやけにしっかりしてきたわね。頼もしいんだか、逆に危なっかしいんだか」
「『頼もしい』に決まってるでしょ!? 失礼だなぁ。ねえお父さん?」
 お父さんに話を振ると、彼はニコニコと嬉しそうに何度も頷いた。
 あたしもつられるように、ついニンマリと笑みを浮かべてしまう。
「……なぁーに、二人してニヤニヤしちゃってぇ」 
 不審そうに眉をひそめるお母さん。
 あたしとお父さんは顔を見合わせて、それから声を出して笑った。
「この夏が勝負だからな! お父さんはナツを応援してるぞ!」
「まっかせといてよ! 今度の模試ではA判定叩きだしてみせるもんね!」
 テンションも絶好調でガッツポーズをすると、お母さんも少し呆れ気味に笑い声を漏らす。
「なんだか、アオイくんに似てきたんじゃない? 根拠も無く自信過剰なあたりが……」
 さりげなく失礼なことを言っていた。 



 この町に、アオイのいない夏がやってくる。
 あたしは一人で、あの秘密の”ジェットコースター”に乗った。
 敷き詰められた絨毯のように緑の水田が広がる中、風を切りながら、急勾配の坂を自転車で一気に滑り降りてゆく。
 目にしみるほどの凄まじい風圧と、飛び立ちそうなスピードのスリルに立ち向かう。
 いつもアオイの後ろで感じていた風を、初めて真正面から感じた。
 アオイの見てたものが、アオイの戦ってたものが、少しだけ見えた気がした。
 ――あたしはもう泣かない。一人でも恐くない。
 これからは自分の足で、自分の道を歩き出す。





Copyright(c) 2008 sayumi All rights reserved.