ナ ツ ア オ イ

忘れない 1



 ――――拝啓 倉元葵 様。
 
 お元気ですか?
 今年は東京は雨が多かったと天気予報で言っていましたが、大丈夫でしたか?
 この暑さで体調を崩したりはしていませんか?

 こちらは皆変わらず元気にやっています。
 お父さんとお母さんはいつも仲良しだし、診療所も相変わらず患者さんたちで賑わっています。
 お父さんは去年のギックリ腰に懲りたみたいで、今年は同じ轍を踏まないようにと、 ついに思い切ってマッサージチェアを購入しました。
 あたしも試しに使わせてもらったんだけど、これがまた気持ちいいのなんのって……。
 お母さんも気に入ったみたいで、すっかり我が家のブームになってます。

 あたしも今年で大学二回生。
 ついこの間入学したばっかりだと思ってたのに、十代の一年というのは本当に短いね。
 最初のうちはしょっちゅう迷子になっていた大学のキャンパスも、今ではすっかり自分の庭になりました。
 サークルの合宿やら、課題レポートの提出やらで、ここ数週間はバタバタしていたけど、 試験が終わればようやく夏休み。
 今年の夏休みは、海に行って、資格の学校に通って、バイトもして……、去年より計画が盛りだくさんです。
 なんだかんだで、すっかり大学生活を満喫しています。
 バタバタしながらも楽しい毎日を過ごしています。

 あたしは、とても元気です――――。





 ブザーが鳴ると、広い教室の中はいっせいにざわめき始めた。
 試験終了の合図は、いまだに受験の時を思い出してドキっとする。
 大学の前期末試験最終日、最後の試験が終了した。 学生たちは、これで晴れて長い夏休みへと突入することができるわけだ。
 解答用紙が回収されると、あたしは大きく伸びをして、ペンと消しゴムをペンケースに片付けた。
 前の方の席で、答え合わせをしながらテキスト片手に騒いでいる集団がある。 その一方で、試験のことなどさっさと忘れて、海外旅行のパンフ片手に生協の旅行代理店へ向かう人たちもいた。
 二回生になって、こういう環境にもすっかり慣れたけど。
 大学って面白い。
 色んな地域から色んな人が集まってきていて、高校までとはまったく違う世界だった。


 教室を出ると、ムっとした熱気に一瞬眩暈がした。
「お疲れさま」
 後ろからチョイと肩を叩かれて、あたしはその声の主を見る。
「高梨先輩! 先輩もこの時間に試験だったんですか?」
「そう、隣の教室だったんだ。これで今期の試験は無事完了」
「あたしも! これでようやく羽が伸ばせますよー」
 学生でひしめくラウンジを、あたしと高梨先輩は並んで歩く。
 あたしは先輩と同じN大に、去年の春から通っている。
 第一志望の法学部に合格し、感無量の気持ちで高校を卒業したのが二年前。
 高校三年の約八ヶ月間は、それはもう二度と味わいたくない辛い受験生活だった。 自分で高らかに宣言しておきながら、諦めて逃げ出したいと思ったことも、度々あった。
 なんとか乗り越えてこられたのは、お父さんやお母さんの支えと励ましがあったからだ。
 全力でぶつかって燃え尽きて、合格通知を手にしたときの、あの喜びときたら……。 お父さんもお母さんも、二人とも泣いて喜んでくれたっけ。
 高校とは全く異なる新しい環境に、最初のうちは右往左往していたけれど、 今ではすっかり女子大生としてキャンパスライフを満喫している。
 大学生として迎える夏休みも、これでもう二回目になった。
「どう? 学食でメシ食っていかない?」
「あ、いいですねー」
 あたしたちは学食の入った建物へと足を向けた。
 高梨先輩は今年で三回生。あたしと同じ法学部で、司法試験を目指して勉強中だ。
 入学式でバッタリ再会してからというもの、あれこれ貴重なアドバイスを受けつつ大変お世話になっていた。 右も左もわからない大学生活で、ここまで失敗をせずにやってこられたのは、間違いなく先輩のおかげだった。



 Bランチのプレートを手に、席につく。
 先に座っていた先輩は、携帯を片手に誰かにメールを打っていた。
 同じ大学に通うことになったのは本当に偶然だけど、あたしと高梨先輩は新しい環境で かなり親しい間柄になっていた。
 高校の時とは少し違う関係といえる。
 あたしはあの頃のような”猫かぶり”をしなくなり、先輩も先輩で遠慮なく言いたいことを言うようになった。 今はお互いとても自然体で、身近で気さくな相談相手になっている。
 成り行きで先輩が所属するテニスサークルに入ってしまったりもして。
 多分、この”広い”大学という場所で、同じ地域出身の人がいるというのは心強かったんだと思う。 あたしは先輩のことをとても信頼し、環境に慣れない頃は彼の顔を見るだけで安心していた。
 同じ地域出身といえば……。約一名、一年遅れで同じ大学に進学してきた元クラスメイトがいる。
 竹井裕輔だ。
 彼は一年間の浪人生活を経て、二度目の受験でN大合格を勝ち取った。
 高校三年の後半に身長が大きく伸びた竹井は、大学に入ってきた時には一七五センチを越えて 妙に男らしい風貌になっていた。
 見事に”大学デビュー”を果たした彼は、今ではキャンパス内でしょっちゅう女の子達と行動を共にしている。 冴えなかった高校時代に比べると、思わず目を疑うような、ありえない光景だった。
 そのことを唯に電話で話すと、受話器の向こうから思いっきり鼻で笑う声が聞こえてきた。
 『少しばかり図体デカくなろーが、あいつは根本的にヘタレなのよ』って。
 相変わらず、彼女の竹井への評価は辛口だった。
 その唯はというと、今は遠く関西、京都にいる。京都にある私立大に進学し、今はあっちで 一人暮らしをしている。
 『また綺麗になったから、今度会うの楽しみにしててよ』なんて、この間は冗談半分に言っていた。
 春香は東京の女子大へ進み、大学の寮で一人暮らしをしている。
 案の定、ご両親の猛反対のせいで相当大変だったみたいだけど、どうやら自分の意思を貫いたようだ。 半ば勘当同然の状態で家を出た彼女だったけど、今では少しずつ御両親の方が譲歩の色を見せ始めているという。
 春香と順調に続いている川瀬くんも、今は同じく東京だ。
 彼はなんと猛勉強の末、競争率の高い薬科大に合格することができたのだ。
 そんなわけで親しい同級生はほとんど、県外へ出て行ってしまった。
 一人取り残されたような気がしないでもなく、正直寂しい思いもしたけれど、 皆それぞれ自分の道を進み始めたのだ。この遠く離れた故郷から、友達としてできる限り応援してあげたいと思った。
 それに、あたしたちはこの町で”かけがえのない時間”を共に過ごしてきた。
 その思い出を共有しているというだけで、離れていても確かな絆のようなものを感じることができた。
「みんな、元気かなぁ」
 あたしが思い出したように呟くと、高梨先輩は携帯を閉じて顔をあげた。
「そういえば……、アオイは? 最近連絡ないの?」
 あたしは片方の口角をあげて、苦笑をつくる。
「連絡……、無いわけじゃないんですけどね……」
 溜息をつきながら、頬杖をついた。
 東京にいるアオイからは、三ヶ月に一度くらいの頻度で定期的に電話が入っている。
 携帯でなく、家の電話にかかってくる。
 たいていあたしが取るのだけれど、後ろでお父さんとお母さんが急かすように順番待ちをしてるので、 あまり大した会話はできていない。近況報告とか、簡単な冗談を言って笑い合う程度だ。
 あたしが大学に合格したときは、受話器越しにもわかるほど大喜びして祝福してくれたけど。
「そっか。あいつも色々忙しいんだろうな。ゼミの課題とバイトに追われて死にそうだって、 この間メールで散々弱音吐いてたよ」
「へえ、そうなんですか……」
 (アオイ、先輩相手には弱音も吐いたりするんだ……)
 男同士の友情に、一切甘さは無いけれど、骨太な繋がりがあるようだ。
 高梨先輩と親しくなるにつれ、アオイが彼をとても信頼していることを知った。 先輩を通して知ったアオイの意外な一面などもあったりして、結構興味深かった。
「まあ、でも楽しくやってるみたいなんで、安心はしてますけどね」
 この間の電話の話によると、どうやら”果歩さん”の調子も良いらしい。 『果歩におまえの話したら会いたがってたぞ』なんて、なんだか照れくさいことを言ってくれた。
 アオイはなんだかんだで、新しい家庭でうまくやっているようだ。
 フウっと安心した顔で一息ついていると、急に高梨先輩の視線を感じた。
 黒い目が、まっすぐにあたしを見つめている。
 先輩の目線は相変わらず、女の子をドキドキさせる威力がある。 付き合いが長くなって耐性がついたとはいっても、不意打ちのように見つめられると、 さすがにワタワタと慌ててしまった。
「な、なんですか……? 顔に何かついてます!?」
 先輩は目線を逸らさないまま、含みをもった笑みを見せる。
「……いや、広川さんが”アオイ離れ”するのも時間の問題、だといいなぁと思って」
 ――”アオイ離れ”。
 それは高梨先輩が言い出した表現だけど……、あえて”兄離れ”とは言わず ”アオイ離れ”と言うあたり、なんだかいつもギクリとさせられる。
 ごまかす様に頬をポリポリ掻きながら、あたしは薄ら笑いを浮かべた。
「あ、あたしはとっくに自立してますよ。だいたい……、アオイなんてもう二年以上も会ってないんだし」
 ――そうなのだ。
 確かに、アオイは結構まめに電話をかけてくる。
 けれど高校を卒業して東京へ行って以来、彼は一度も八重里(やえのさと)の家に帰ってきていない。
 電話での会話からお互いの近況や様子はだいたいわかるけど、思えば随分長い間顔も見ていないのだ。
 同じく東京に行った千鶴ちゃんは、休暇のたびに戻ってきてるのに、アオイときたら……。 まったく薄情なものだと思うけど、案外さっぱりしてるあたしも、我ながら成長したのかなと思う。
 高梨先輩はなんだか愉快そうに笑っていた。 全てを見透かしたような掴み所のない表情が、なんだか落ち着かない。
 先輩はさらりと爆弾発言をしかけてきた。
「じゃあさ、俺もそろそろ二度目のアタックかけてもいい時期なのかな? 広川さんに」
「……ぶっ」
 口に入れていたトマトを噴き出しそうになる。 危うく高梨先輩のお綺麗な顔を汚すところだった。
 ハンカチで口元を押さえ、トマトに負けない真っ赤な顔でジタバタしながら、 あたしはどうにか口の中のものを飲みこんだ。
「なっ、なに言ってんですか! そんな顔で、たちの悪い冗談言うのやめてくださいよ!」
「ひどいよなぁ。本気なのに……。俺すごい傷ついたよ」
 言葉とは裏腹にニコニコしながら、先輩は優雅な仕草で、パスタを絡めたフォークを口に運んでいる。 ちっとも傷ついた様子などなく、こっちが脱力するほど平然としていた。
 この人はどうやら、涼しい笑顔を浮かべながら相手を翻弄するのが好きみたいで。
 高二の時に感じた直感は、外れてなかった。
 本性は意地悪な人なのだ……。
 そして、そんな彼の問題行為の主たるターゲットは、あたしだった。
 本気かどうかもわからない言葉で、こんな風にしょちゅう慌てさせてくれる。
 口を拭きながら、あたしはどうにか食事の体勢を持ち直した。
「だいたいですよ? 先輩が彼女つくったら、うちのサークルどうなると思ってるんですか。 先輩目当ての新入生の女の子達が、ゴッソリやめちゃいますよ?  あたし勧誘頑張ったんですから勘弁してくださいよ」
「え……、じゃあ俺って卒業まで独りなの? それってかなり笑えないんだけど。 男ばっかのゼミで、ただでさえ出会いが無いのに」
「まぁーた、そんなこと言っちゃって。あたしちゃんと知ってますよ。二回の吉崎さんと、 この間のコンパでいい感じだったそうじゃないですか」
 あたしの言葉に、先輩の顔が微かに引きつった。
「……なんで広川さんがそんなこと知ってるの」
「女の子の情報網を馬鹿にしちゃいけません」
「……いや、あー、あれはね。あちらが妙に盛り上がっちゃってね……」
 高梨先輩の、こんな風に焦った顔というのは非常に珍しい。
 あたしだって、やられてばかりじゃないのだ。
 だけど、思わぬ反撃は交わすのが賢明と判断したのか、彼はわざとらしく咳払いをして話をそらした。
「それはそうと、岩上神社の夏祭り、広川さん今年も行くよね?」
「岩上神社……? ああ、そういえば……」
 あたしは先輩の思惑通りに、あっさりと次の話題に引きずり込まれていた。
 ――岩上神社の夏祭り。
 もうそんな季節かぁ、とつぶやき、毎年同じことを言っていることに気付く。
 高三の時はアオイがいないのが物寂しくて、なんだかセンチメンタルな気分に もなったけど。
 去年からはあたしなりに色々吹っ切れて、祭りもハイテンションで楽しんでいた。
「いいですね……。夏祭り」
「今年こそ、一緒にどう? ――二人で」
「えっ……」
 ぼんやりと縁日のことを考えていたあたしは、現実に引き戻された。
「まだ予定、入ってないよね?」
「え、いや、でも、ええっと……」
 畳み掛けるように言い募る先輩に、あたしはいいように追いつめられていく。
「じゃあ決まりだ。また待ち合わせ場所とかメールするから」
「……えっ、ほ、本気なんですか?」
 既にパスタを食べ終えた先輩は、お行儀よくフォークを置いた。
「俺はいつも本気だよって、日頃から言ってるじゃない」
 気のせいだろうか。
 ニコニコしながらも、その時の彼の笑顔はいつもと違う空気を孕んでいるように見えた。
 甘い笑顔なのに、どことなく隙の無い感じがするのだ。
 あたしの慌てる顔を面白そうに見ながら、先輩は空き皿の乗ったトレーを持って席を立つ。
「じゃ、俺、悪いけどこれからバイトだから」
「……あ……」
「また連絡するよ」
「……えっと……」
 返答も聞かないまま、一方的に予定を決めて、先輩は爽やかに行ってしまった。
 食べかけのBランチと共に残されたあたしは、どうしたものかと大きな溜息をついて頭を抱えていた。
 (先輩ってば、あたしなんかのどこがいいんだろう……)
 お互い好きなことを言い合うような関係にはなったけど、高梨先輩はどうやら、 今でもあたしを好きでいてくれているらしい。
 ふとした時に彼が垣間見せる”本気”に、あたしはどう対応すればいいのかわからず、 今まで何かにつけてごまかしてきた。
 でも……。
 ――そろそろ、向き合ってみてもいいのかもしれない。
 それはこの間、電話で唯にも言われたことだった。
 もう高二の時のあたしとは違う。あれから沢山の時間が過ぎ去ったのだから、 いい加減新しい恋に目覚めたって、いいんじゃないかって……。



 学食を出て、正門までの緩やかな坂を下る。
 商店街を歩いて駅へ向かっていると、少し先にある本屋の前に見覚えのある青年が見えた。
 茶色く染めてオシャレ系にカットした髪と、少しひょろっとした長身の体型。
 その姿がどうしてもツボに入り、あたしはつい半笑いになってしまう。
「おーい、竹井ー!」
 彼の名を呼んで大きく手を振ると、彼は独特の警戒するような顔と仕草で振り返った。
 表に出された書棚の前で、メンズ向けファッション雑誌を手に持っている。 どうやら買うつもりらしい。
「……お、おう」
 竹井はボソリと返事をし、それからポリポリと頭を掻いた。
 その仕草がまたおかしい。
 大学デビューはしたものの、高校時代を知るあたしの前では、彼はあの頃のままの態度に戻ってしまうのだ。
「久しぶりじゃない。同じ大学なのに、案外会わないものだね」
「……まあ、学部が違うからな」
 商学部の竹井とは、校舎そのものが違っているのだ。
 竹井はなんだか落ち着かなさそうに、ソワソワしていた。 あたしに何か言いたそうに、チラチラと目を向けている。
「……あ、あの、さ……」
 彼のそんな態度の原因はわかりきっていた。
 あたしは先手を打つように返事をする。
「なに? 唯なら、最近電話してないよ?」
「――だっ! ちがっ……!」
 その瞬間、真っ赤に顔を沸騰させて慌てながらも、竹井は明らかにがっかりした顔をした。
 大学で女の子の友達はたくさんできたようだけど、どうやら付き合っている特定の相手はいないようだ。
 卒業してから彼は唯とはほとんどまともに会ってないはずなのに、一途な奴だと思う。
 ここまでくると、涙ぐましいものがある。
「……ま、あんたも色々頑張んなよね?」
 バシっと竹井の背中を叩くと、彼は体をビクリと震わせて恨めしげな顔を向けた。
 反応がいちいち臆病だ。中身は全く変わっていないのが面白すぎる。
 笑いを堪えながら道を歩き始めていたあたしは、ふとあることを思い出して振り返った。
「あ、そういえば」
 あたしの声に反応し、書店の中に入りかけていた竹井も足をとめて振り返る。
「今年の夏休みはこっちに帰ってくるって、唯からメールがきてたっけ……」
「……マ、マジで?」
「うん、マジ」
 視界の端で、竹井の顔がぱっと輝いた。
 さっきまでうなだれていた頭をあげ、目を輝かせている。まさに喜色満面というに相応しい。
 ――相変わらず、わかりやすい奴だ。
 (唯も少しは、竹井のことを見てあげればいいのに……)
 そんなことを考えながら、あたしは今度こそ、その場から立ち去った。
 今年の夏に帰って来るのは唯だけじゃない。 春香も日程を合わせて帰省することになっている。
 久々に三人揃って会えるんだと思うと、心が沸き立つように楽しみでしかたなかった。





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