ナ ツ ア オ イ

忘れない 2



 電車を降りると、お母さんから電話が入った。
 あたしの試験終了を祝して、今夜の夕飯は”すき焼き”ということになっている。 もっともらしい理由をつけてはいるものの……、結局みんなお肉が食べたいだけだ。
 シラタキを買い忘れたので帰りに買ってきて欲しい、との電話だった。
 あたしは『スーパーゆかり』に立ち寄って、買い物を済ませると家に向かった。


 西から射す日ざしの強さが半端じゃない。
 本格的な夏が、またやってくる。
 早くも猛暑の気配が色濃くなってきて、駅前の電器屋ではエアコンの売れ行きが好調だとか。
 額に滲んだ汗を拭いながら、赤い空を見上げていた。
 そのあたしの足元を潜り抜けるように、後ろから来た小学生が二人、ランドセル姿で走っていく。
 まだ低学年の、小さな男の子と女の子だった。
 兄妹かもしれない。
 あたしは思わず立ち止まり、その子達の姿を目で追っていた。
 さっさと一人で走っていく男の子を、必死に追いかける女の子。
 その女の子が、三月橋(さんげつばし)の真ん中あたりで勢いよく前のめりに転んだ。 とたんに大きな声をあげて泣き出してしまう。
 あたしは駆け寄ろうとしたけど、それより早く、先を行っていた男の子が慌てて戻ってきた。
 彼は泣き喚く女の子をなだめ、手を引いて立ち上がらせる。 頭を撫でて何か言いながら、その子が泣き止むように一生懸命なぐさめていた。
 やがて、二人は手を繋いで橋の向こうに歩いていく。
 女の子は、男の子の手をぎゅっと握り締めて。
 まるで、世界で一番頼れる存在を捕まえるように、ぎゅっと……。
 あたしはしばらくその場で、彼らの姿が川向こうの集落に消えていくのを見ていた。   
 それから再び歩き出した。
 この季節が廻ってきて、夕暮れの町を一人で歩いていると、どうしても思い出すことがある。
 既に思い出の中におさまっているはずの、あの背中――。
 しつこく追いかけてきて、温かく笑いかけてくれた顔。
 あたしの中に新たな感情の種が生まれた、あの、始まりの夏……。
「…………」
 あたしはそこでハっとなる。
 記憶の残像を振り払うように、慌てて頭を横に振った。
 (……ダメだな、あたし)
 自立とか、忘れるとか、新しい恋だとか……、口では強がったことを言ってるけど。 少し大人になって、ちょっとズルくなって、感情をごまかすのは上手くなったけど……。
 ――忘れるって、けっこう難しい。
 自嘲的な思いを吐き出すように、溜息をつく。
 幾重もの筋のような雲が流れる、綺麗なグラデーションの空が町を包んでいた。
 オレンジの光をバックに、山の稜線のシルエットがくっきりと浮かびあがっている。
 空の色は刻々と変化してゆく。
 太陽がそこに吸い込まれていくまでには、あと少し時間がありそうだった。
 あたしは大きく深呼吸し、再び家に向かって歩きはじめた。



 三月橋から遠ざかって住宅街に入り、沿道に夏草がまっすぐ伸びた道を歩いていく。
 家のすぐそばまで来た時、前方に見える人影に気付いた。
 広川家のすぐ前の道で、反対側の白いガードレールにもたれながら、じっと家を見上げている人物がいる。
 その一瞬、あたしは息が止まるかと思った。
 やや伸び気味の髪が、夕暮れの光を孕んで透き通り、緩やかな風に靡いていた。
 前より若干痩せたかもしれない細い体は、けれども確かな逞しさを感じさせる。
 空色のTシャツとジーパンを着用した懐かしい姿は、あたしの胸を限りない情動で締め上げた。
 髪に隠れて表情までは見えないけれど。足元に大きなスポーツバッグを置いたまま、”彼”は少しも動かずに、 ただじっとあたしたちの家を見上げているようだった。
 どのくらいの間、その現実離れした光景に見入っていただろう。
 硬直した体を奮い立たせるように、あたしは一歩、また一歩と近付いていく。
 どこかの家で犬の吼える声がして、それを契機に彼の注意は周囲へと向けられた。
 こちらに気付くと、白いガードレールから腰をあげ、そして体ごとこっちに向き直る。
 距離を保ち、真正面から向き合う位置関係で、あたしは一度立ち止まった。
「……アオイ?」
 呆然とつぶやくあたし。
 しばらく固まったように動かなかった彼の表情が、ゆったりと笑顔に変わった。
 少しずつ重なっていく、記憶の中と同じ、あの太陽のような笑顔だ。
 こっちに向かって大きく手をあげる。
「――ナツ!」
 あたしはこの状況がまだ信じられないまま、ふらふらとした足取りでアオイに近付いていった。
 驚きを通り越して放心に近い。言葉もなかった。
「よっ、元気そうじゃん!」
 アオイはあたしの顔を見下ろしながら、相変わらずのテンションで軽快に話す。
 数日振りに会ったかのような口調が、あまりに自然すぎて。
 そのせいで余計に、その場の状況が現実味を欠いて見えた。
「おまえ、ちょっと背伸びたのか? まあ相変わらずチビだけどな」
 デリカシーに欠ける軽口を叩いて一人で笑いながら、あたしの頭をポンポンと叩く。
 その感覚にようやく平常心を取り戻し、あたしは彼の手を振り払った。
「アオイ! な、なんなのよ急に! びっくりするじゃない!!」
 あたしは頭から煙を出す勢いで憤慨するけれど。
「……びっくりさせようと思ったんだよ」
 急に意味深な笑みを覗かせるアオイに、言葉の勢いを封じられた。
 一瞬、ドキっとするほど彼の表情が大人びて見えたのだ。
「い、いきなりすぎるよ。二年も帰ってこなかったくせに……」
「悪い悪い。いやぁ、俺も何かと多忙でさー。……おっ」
 アオイは言いながら、何かに気付いたように玄関口のほうへ近寄って行った。
 玄関横に置いてあるオートバイの前にしゃがみこみ、紐を解いて被せてあったカバーをめくり上げる。
 それからすぐに、顔をしかめてあたしの方を振り返った。
「なんだよお前、せっかく俺がお前のために譲った愛車なのに。全然乗ってねぇのか。 免許取ったっつってたじゃん?」
「……取ったけど、その、やっぱり、道路走るの恐いし」
「なんだなんだ、相変わらずだなぁ。それならこの俺が、明日からしばらくマンツマーンで教えてやるよ」
「え、明日からって……、じゃあアオイ、しばらく、ここに……?」
 あたしが驚きと期待で目を輝かせるが早いか、突然、家の玄関扉が中から開いた。
 見れば扉の前にお母さんが、呆然とした顔で立ち尽くしている。 座り込んだアオイの姿を見ながら、手で口元を押さえて、見開いた目を潤ませ始めた。
「玄関先で声がするから、まさかと思ったけど……」
「――母さん!」
 アオイはすくっと立ち上がり、お母さんに向かって朗らかに笑ってみせる。
 感極まったお母さんは、アオイに駆け寄ってその体をフワリと抱きしめた。
「おかえりなさい、アオイくん! よく……、よく帰ってきてくれたわ……」
 喉の奥から漏れる涙声が震えている。
 それに応えるようにアオイも、お母さんの背に手をまわした。
「……うん。ただいま母さん」
 優しい低い声で彼は言った。
 その場に立ち尽くしたまま、あたしは胸が熱くなるのを感じていた。
 そして自分がまだ、アオイに肝心なことを言っていないと気付く。
 意を決して声をかけようとした矢先、今度は道の向こうからバイクの近付いてくる音がした。 それは家の前で急停車したかと思うと、乗り手が勢いよく飛び降りてきた。
 お父さんだった。
 お父さんはバイクのエンジンをかけて道脇に放置したまま、 家の玄関前にいるアオイの姿に、何度も目をしばたかせていた。
 鳩が豆鉄砲をくらったような顔で、何かを呟きながらゆっくり近付いてくる。
「なんだ……、俺によく似たナイスガイが、家の前に見えると思ったら……」
 次の瞬間、お父さんは勢いよくアオイを抱きしめた。
「やっぱりアオイじゃねえかぁ! おまえ久しぶりすぎるぞ!!」
 たくましい腕にがっちり抱きすくめられて、アオイがうめく。
「うおっ、父さんもかよ! さすがに暑苦しいから勘弁してくれ!」
 だけどお父さんはますます腕に力を込め、息子の体をギシギシと締め上げた。
「なにおう! 親子の感動の再会に暑いも寒いもあるか! よく戻った! 息子よ!!」
 お父さんは目尻に涙を光らせて、抵抗して彼を引き剥がそうとするアオイを、力の限り抱きしめていた。
 根負けしたのはアオイのほうだった。
 お父さんになされるがまま、アオイはげんなりした顔で、今度はガクガクと体を揺さぶられている。
 あたしとお母さんは、その光景に思わず顔を見合わせて吹き出してしまった。
 オキザリスの花が咲いた家の前で、その後もしばらく家族四人、少しお馬鹿な再会劇を繰り広げていたのだった。


「ったく、アバラが折れるかと思ったぜ。相変わらず父さんの馬鹿力は……」
 ブツブツ言いながら家の中に入っていくアオイ。
 すっかり辺りは薄暗くなっている。
 あたしは彼の後ろで、必死に声をかけようと口をパクパクさせていた。
 (ちゃんと言わなきゃ)
 (――言わなきゃ!)
「ア、アオイ!」
 半分裏返ってしまった声に、アオイはやや不審そうな顔で振り返る。
「あ、あの、その……」
 こちらに向けられるアオイの視線が真っ直ぐすぎて、あたしはジタバタと挙動不審に陥りかけた。
 それだけじゃない。
 さっきから喉の奥に込み上げてくる、この感覚……。
 (ヤバイ……)
 もう、泣かないって決めたのに。
 ――この二年間、一度も泣かなかったのに……。
 あたしは涙腺の危機と戦いながら、どうにか口を開いた。

「あの、……おかえり。アオイ」

 視界が潤みそうになるのを、気合いで抑え込みながら。
 ――おかえり。
 あたしはアオイに、どうしても言いたかったその言葉を告げた。
「…………」
 アオイは何も言わず、じいっとあたしを見ていた。
 それからどういうつもりか……、彼はゆっくりと、こちらに手を伸ばしてくる。
 あたしの顔に、だんだんアオイの手が近付いてきて――。

「……たっ!」
 なぜか、デコピンを食らわされた。
 アオイは弾いた指の形をそのままに、ニヤリと笑っている。
 ジンジンと痛むおでこを両手で押さえて、恨めしい視線を投げかけるあたし。
 素知らぬ顔で玄関の中に入っていきながら、アオイは振り返らずに言った。
「ばーか。泣いてんじゃねーよ」
「…………」
 涙を見破られたことにショックを受けつつ、あたしはしばらく恥ずかしさに打ちのめされる。
 でもすぐに気を取り直して彼の後を追った。
 心臓を突くような胸の高鳴りの原因は、紛れも無く再会の喜びと、そして……。





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