ナ ツ ア オ イ

忘れない 3



 久しぶりに、食卓の席が全て埋まった。
 グツグツ煮えるすき焼きのお鍋から、芳しい匂いが漂っている。
「アオイくん、今日は泊まっていくんでしょ? 部屋が物置になっちゃってるから、あとで片付けなくちゃね」
「一週間ほど世話になってもいいかな?」
「何言ってるの! 一週間でも二週間でも、好きなだけいていいのよ!」
 ここはあなたの家なんだから、とお母さんは続ける。
 お母さんはアオイが使っていたお茶碗とお箸を出してきて、かいがいしく世話をやいた。
 お父さんもアオイの器に次々お肉を盛りながら豪快に笑う。
「どんどん喰えよ。ほっそい体しやがって。もっと筋肉つけろ」
「アオイくん、卵足りてる? お肉もゴハンも、いくらでもおかわりしていいんだからね?」
 二人とも本当に嬉しそうだ。
 ……うん。あたしも、アオイが帰ってきてすごく嬉しい。
「でも、さすがアオイだよね。わざわざ”すき焼き”の日を嗅ぎ付けて帰ってくるなんてさ」
「ほんと。俺ってスゲーよな。自分で自分を崇めたくなるぜ」
「……いや、ほめてないんですけど」
 アオイは相変わらずの明るさで、この家に懐かしい風を引き入れる。
 欠けていたピースが、埋まってくような感じがした。
 ――やっぱりアオイは、この家の家族の一部なんだ……。
「父さんも母さんも、ちょっと待ってくれよ。そんないきなり口に入んないから。 頼むからもっとゆっくり食わせてくれ……」
 アオイは山盛りの器を抱えて、顔を引きつらせていた。
「どうだアオイ、おまえ二十歳過ぎたんだから、こっちもいけるだろ?」
 お父さんはノリノリでアオイのグラスにビールを注ぐ。
「いきなり飲ませんのかよ……」
「男ならグイっといけ! グイッとぉ!」
 アオイがなんとか逃げようとするも、お父さんの強引さには抗えず、 なみなみと注いだビールを無理矢理飲まされていた。
 そういえばアオイはもう二十歳なのだ。
 あたしはその時になって改めて気付いた。
 成人式にすら帰ってこなかったから、言われるまで全然実感が無かった。
「ったく、父さんは相変わらずだなぁ。母さんもなんか父さんと行動が似てきたし……。 っと、タンマ! もうマジで勘弁してくれ!」
 なおもビールを注ごうとするお父さんの手を、アオイは必死で抑えている。
「みんなアオイが大好きだからね。アオイが帰ってきて、ほんとに嬉しいんだよ」
 あたしはできるだけ自然を装い、冷やかすように横から口を挟む。
 するとアオイの目があたしに向いた。
「誰かさんはずーっと涙目だけどなぁ……」
「うっ……」
 目ざとく図星を突かれたうえに、コツンとグーで頭を小突かれてしまった。
 あたしのむくれた赤い顔を見て、アオイはくつくつと笑っていた。
 (人の気も知らないで……)
「ところでアオイ、学校のほうはどうなんだ。周りはそろそろ就職も視野に入れて動き出してるんじゃないのか?」
「あーそうそう。早い奴なんてもう、二回の夏からOB訪問とかやってるよ。ほんと世知辛い世の中だぜ。俺も休み明けに教育実習行く予定だけど」
 あたしは口の中のシイタケを喉の詰まらせそうになった。
「教育実習!? アオイが教壇にたつの!? うわっ、ありえないっ!」
 ――いや……、アオイが教師っていうのは、確かに向いてるとは思うんだど。
 なんでか現実的に想像すると急におかしくなって、思いっきりウケてしまった。
 一見すると高校生の時とほとんど変わっていない、今ここにいるアオイが、大勢の生徒の前で授業をするなんて……。
 口に手をあてたままプププと笑うあたし。
「失礼な奴だな。俺は着実に教師への道を歩んでるっつーのに」
「うん、ごめ……。なんかツボに入っちゃって。でも教育実習って、アレ、やっぱ出身校でやるの?」
「ああ。だからその時もこっちに帰ってくるつもり。……まあ、よろしく頼むわ」
 ズルズルと吸い上げたシラタキを口の中でモゴモゴと噛みながら、アオイはどことなく照れくさそうな顔をしている。
 その顔は、ほんとに少しも変わらないようにも見えるけれど……。
 グラスの麦茶を飲みほしていく横顔を、あたしはこっそり覗き見ていた。
 以前ほどの日焼けは見られないけれど、全体的に丸みが取れて精悍さが増したような気がする。 顎から首にかけての、無駄のないシャープなラインがより際立っていた。
 そして不揃いに伸びた前髪の下、前とは違う、少し落ちついた影を落とす瞳が印象的だった。
 改めてよく見ると、やはり何もかもが前と同じではないのだと気付く。
 (大人っぽくなっちゃったんだな……)
 感慨深い気持ちを覚える反面、離れていた時間をより実感し、あたしは少し寂しい気分になった。
 いくら中身や性格がそのままだとはいっても……。
 ――ここにいるのはもう、あの頃のアオイではないのだと。
「それでおまえ、教師の口はやっぱりあっちで探すつもりなのか?」
「…………」
 お父さんの質問に、ふとアオイの箸が止まった。
 彼はそれを機に、持っていたお碗を静かにテーブルの上に置いて、空いた両手を膝の上に乗せる。 妙に畏まった姿勢になってお父さん達のほうを見た。
「……そのことなんだけど……」
 アオイが真剣な顔で何か言いかけたところで、言葉を遮るように玄関のチャイムが鳴った。
「あら、宅配でも来たのかしら」
 お母さんがお碗を置いて、席を立つ。エプロンを外してバタバタと玄関に出て行った。
 なんとなくタイミングを外してしまったのか、アオイは軽く咳払いをして姿勢を崩す。 空回りした意気込みを紛らわせるかのように、グラスの水をゴクゴクと飲み、言いかけた言葉を引っ込めてしまった。
 そしてそのまま、あたしに話を振ってくる。
「ナツ、おまえの方はどうなんだ。単位落っことしたりしてねーのか?」
「ご冗談。あたしは順調に確実に試験をクリアしてますからね。きっちり四年で卒業できる見込みなのよ」
「そりゃよかった。てっきりサークルに夢中で授業サボってんじゃないかと」
「なによそれ。アオイじゃあるまいし。あたしは真面目なんだからね」
 お母さんがお中元の箱を抱えて戻ってきたときには、そんな風に別の話題に変わっていた。
 あたしたちの会話は、すっかりいつものノリだ。
 口を開けば、二年のブランクを忘れさせるほど、以前の食卓と同じ。
 アオイがこの家にいる。
 この食卓の椅子に座っている。
 数年前まで当たり前だったはずの光景が、今は奇跡のように嬉しくて、 けれどその一方で漠然とした寂寥感が心の奥にちらついていた。


 食後、片付けをするあたしとお母さん。
 食卓ではお父さんとアオイが久しぶりに野球の話で盛り上がっている。
 というより、お父さんのほうが一生懸命アオイに野球談義を語り聞かせている感じかもしれない。
 アオイは相槌をうちながら笑っているけれど、なんとなく……。 気のせいか、彼の気持ちがそこには無いようにも見えた。
「よかったわね。ナツ」
 台所で洗い物を始めるあたしに、横でスイカを切っていたお母さんが言った。
「え……?」
「ナツのそんな楽しそうな顔、久しぶりだわ」
「……そ、そうかな」
 お母さんはニコニコ笑いながら、それ以上は何も言わない。
 なんだかんだで浮かれている気持ちを見透かされたようで、あたしは気恥ずかしくなった。
 確かに、この家にアオイの気配があることが嬉しくてたまらないけど……。
 その時のお母さんの言葉はなんとなく、色々と余計なものまでお見通しのような気がして、 内心焦ってしまったのだ。


 四人分のスイカをお盆に載せて、テーブルに運ぶ。
「さあさ、よく冷えたスイカよ。みんな食べて食べて」
「おっ、いいね〜。夏だね〜」
 お父さんが熱い野球語りを打ち切って、目の前のスイカのお皿に手を伸ばす。
 お母さんとあたしが椅子に座ると、全員が席につくのを待っていたかのように、 突然アオイが声を挟んだ。
「あのさ、俺、話があるんだけど」
 彼は一人で姿勢を正し、眉間に皺を寄せて神妙な表情を浮かべている。
 就職面接を受けるような、えらく真面目で堅苦しい顔だ。
「どうしたの? アオイくん」
 あたしもお母さんも不安な面持ちでアオイを見ていた。
 お父さんもスプーンを持ったまま動きを止めて、ポカンとアオイの顔を見る。
「なんだ、そんなに改まって」
 アオイはその畏まった姿勢のままで、重々しく口を開いた。
「さっきも言ったけど、俺、教員免許取って、卒業後は中学の教師を目指すつもりでいる。 ……その、できればとりあえずは、あっちで教師の口をさがすつもりなんだ」
 お父さんはアオイの目を真正面から見据えながら、語られた決意に深い息をつく。
「そうか。まあ、相当狭き門らしいが、東京のほうが少しは募集も多いだろうしな」
 やや残念そうな表情を浮かべながらも、きちんと納得の意を示した。
「……それから」
 更に続くアオイの話に、再び顔をあげるお父さん。
 誰も想像もしなかった突拍子もない話が、アオイの口から飛び出した。

「俺、近々倉元の籍からは出ようと思ってる。”広川”の姓で自分の戸籍を作ることにしたから」

「…………」
 お父さんもお母さんも言葉を失っている。
 あたしもビックリしてアオイを見ていた。
 正直なところ、戸籍がどうとか複雑な話をされても、いまいち意味がピンとこない。
 だけど……。
 (アオイってば、もしかして)
 ――美雪さんや果歩さんと、うまくいってないんじゃないの……?
 後から考えるとひどく見当違いな、そんな疑念まで抱いてしまった。
 もっと他に、思い浮かべるべき何より確実な可能性があったはずなのに。
 その時それに気付かなかったのは、果たして幸か不幸か……、 あたしにとっては、結果的にどうでもよいことに違いなった。
 お父さんもアオイの真意を測りかねている様子ではあったけれど、 真剣な決意表明には違いないその言葉を、親として誠意を持って重く受け止めていた。
「……そうか。おまえの好きにしたらいい。おまえの人生だからな」
 そう言って軽く目を伏せる。お父さんはやはり少し寂しそうだ。
 いずれにしろ、アオイの先の発言から、 彼が卒業後も東京で暮らしていくつもりでいることが、既に明らかになっていたわけで。
 ほんの僅かでも期待をしていたのは多分、お父さんだけではなかったのだろう。
 隣に座ったお母さんも、どことなく沈んだ表情をしながら静かに頷いていた。
 アオイはそんな彼らの顔を交互に見る。
「ありがとう、父さん、母さん」
 ほんの一瞬だけ表情を緩めたものの、またすぐにそれを堅くした。
「……それから、もう一つ、許して欲しいことがあるんだ」
 彼の話は、まだ終わりではなかったのだ――。
 ただ一人に注目が集ったままの食卓で、その的となっているアオイはもう一度、仰々しいほどに姿勢を正す。
 再びお父さんとお母さんの顔を見る。
 真っ直ぐにそれぞれの瞳を見据える。
 それから深くひれ伏すように頭を下げて、アオイは言った。
「父さん、母さん。大学を卒業したら、ナツを俺に下さい」





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